春の思想家、冬の将軍。

 伊藤博文は春畝と号し、山県有朋の号は含雪です。
号とは、文人が自らのこころの在処を名付けるもの。こういう心境でいたいという願望もあらわすものでもあります。春畝(しゅんぽ)は春の穏やかな田園風景を想い浮かばせ、含雪は敢えて口に雪を含むことで、緩みがちな気を引き締める気概を感じさせます。これをそのままふたりの性格に反映させて、伊藤の楽観的で争いを嫌う調整役としての態度だったり、山県の慎重で時に臆病と思えるほどの頑迷さに帰すことも可能でしょうが、それは浅慮というものでしょう。

 今回、紹介するのは、「伊藤博文 知の政治家」瀧井一博著 中公新書と「山県有朋 愚直な権力者の生涯」伊藤之雄著 文春新書の二冊です。
著者の瀧井氏は1967年生まれ、ドイツ法制史がご専門で、ローレンツ・フォン・シュタインの研究から伊藤博文に強い関心を持たれたそうです。丁度そのとき京都大学の大学院のゼミで瀧井氏が師事されたのが伊藤之雄氏です。伊藤氏は1952年生まれ、明治から現代まで数多くの政治家の評伝を手掛け、一次資料(日記や手紙)を広範に丹念に調べ上げ、人物を深く、細密に掘り下げる手法は「評伝の達人」と言っていい近現代史研究の第一人者です。

 評伝には、その対象とする人物について従来からの定説や先入観(イメージ)を覆し、新しい側面や新しい価値付けを見出すという役割があります。瀧井氏が発見した伊藤博文は「政治家というより福沢諭吉に比肩しうる思想家」としての伊藤像です。国家を形成する国民と議会と政府(行政)がどのような関係であるべきかを追求し、教育の重要性を常に説きつづけました。伊藤氏が発掘した山県有朋は「愚直さ」の一生であり、彼の人に対する「優しさ」でした。陸軍の軍事力の拡大は目指しましたが、同時にあくまでもその管理統制を徹底しました。

 岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允という明治の第一世代がまずは幕藩体制を崩壊させ、版籍奉還、廃藩置県という中央集権体制への移行に目途を立てます。藩に従属する武士の身分を一端解いてから中央の官僚として政府の枠組みを作り直す。ところが明治維新から10年後位で内戦(西南戦争)が起こり、西郷、大久保、木戸が立て続けに亡くなってしまう。第二世代として大隈重信、伊藤博文、山県有朋が日本帝国の統治構造をいちから組み立てねばならなくなります。官僚制度の原型は大久保が作った。役割は作ったが人材の供給はどうするのか。そこで伊藤は東京帝国大学を作り、そこに人材を全国から集める。日本の教育制度を大学から作るというのがポイントです。全国各藩の藩校の秀才を東京に集中させ、東京帝国大学に吸収し、官僚エリートを育てる。優秀な人材を海外に官費で留学させ、中央官庁に戻し、地方行政にも供給する。このシステムが起動してから、高校、中学校、小学校と教育機関を下に向けて拡充していきました。

 山県は「国民皆兵」制度を作り、徴兵制を施行します。軍事力が藩に帰属していたものを切り離し、天皇の直結する軍隊を作っていきます。山県という人は、戊辰戦争が予想した以上にスムーズに展開したことに危機感を持っていたのではないかと思います。倒幕軍事力の核となる薩長連合が出来てしまえば、各藩は情勢を見て寝返って来る。それで、上野、北越と戦って、会津で決着が着いてしまった(箱館はちょっと例外にしておきます)。だとすれば、明治政府にしても、反政府軍がある勢いに乗じて、軍事力を増大化するような流れが作れれば、一機にひっくり返させることは可能だと。
 実際、西南戦争はその可能性を孕んでいましたが、圧倒的な兵站能力の差で西郷軍は兵力も武器弾薬も供給される事もなく、消耗してしまいました。だからこそ山県は「軍人勅諭」を発し、兵士に天皇の兵隊であることを肝に銘じさせ、次いで「教育勅語」を発令し、国民全体が天皇に命を捧げることを覚悟させたのでした。天皇と国民が父子関係のように直結するという山県が蒔いた種子は自由民権運動下で沈潜しますが、資本主義化が進み下層の国民生活が貧窮する中で頭をもたげ、陸軍士官学校というシステムによって吸い上げられた地方出身の青年将校たちに受け継がれ、「君側の奸」を除去し天皇親政を打ち立てるべきだというイデオロギーに変容して行きます。

 一方、伊藤は憲法制定後の「議会」を重視します。それは代議士を育成することでした。地方の利権の代表としての議員ではなく、国家の利益を優先して考えられる政治家が議会によって立法し、予算を審議する。伊藤は議員人材の供給源を実業界に求めましたが、そのようなルートは出来ませんでした。そこで華族令を制定し、かつての大名、公家から貴族院議員を選出することを試みるわけです。憲法制定後、伊藤は華族を招集し、何度も演説をします。そのうちの一例を以下に上げます。
 「駱駝と云うものがいかなる生活をなすものであろうかと云う事を研究して見たいと考えて、仏人は直に動物園に馳せて行ったということである。動物園には駱駝を飼って居る、併しながら駱駝が如何なる生活をして居るかと云えば、動物園ではそれは見られない。それは駱駝が生活して居る場所ではない。次に独逸人は如何なることをしたかと云うと、一室に籠って書物に依って其生活の理を究めた。然るに英国人は如何なることをしたかと云えば、直ぐに埃及(エジプト)の駱駝の生活して居る所へ往って、駱駝はかくの如き生活をなすものであると云うことを見て研究致したと云うことである。誠に浅薄な比喩ではあるが、日本国を進めるには、斯くの如き実地的の応用に依らざれば人に後るるのである。」
 ある民族に対して、このような一括りの印象というのはあまりに大雑把ではありますが、ひとつの解釈として西欧列強に対して、批評的な見地からものをいう姿勢は興味深くもあります。伊藤の啓蒙家的側面が良く出ているエピソードであると同時に大日本帝国憲法の見本にしたプロシアドイツをイギリスより低く見ているところも注目です。

 山県は伊藤より4歳年長でしたが、伊藤には一目置いていました。内閣総理大臣に相応しいのは自分より伊藤だと確信していたようです。それは第1に明治天皇からの信頼があり、第2には政党というものがどうしても信頼出来ない山県にとって、政党を操る手腕を認めていました。そして第3に伊藤の外交交渉力です。山県の政治行動の動機は不安であったり、警戒心であったりします。こういう国にしていこうというビジョンは乏しい印象です。
 しかし、後進の人物を育てていこうという意思はありました。桂太郎を首相にしたのも、後に首相になる田中義一を引き上げたのも山県です。そして晩年、政敵であるはずだった原敬を支援し、宮中を抑え、原に内政に専念させたのも山県の力に負うところは大きいです。それでも人気はなかった。大隈重信のように大風呂敷を広げるようなところは微塵もなかった。後の世に言われるように、それほど長州閥に拘ったとも思われません。青年時代に兄のように慕っていた高杉晋作のことは生涯忘れませんでした。
 西南戦争が終わるとその報奨金で椿山荘の庭を造り、日清戦争の後には京都に無鄰菴を作庭する。そして日露戦争後には小田原の古稀庵を結んで、生涯を終わりました。大きな戦争を乗り切ると作庭に没頭するというのは何を意味するのでしょうか。その庭はいずれも比較的厳しい傾斜地を選び、水の早い流れが特徴的で、あまりのびやかな開放感を感じるようなものではありません。それにこれらの庭に併設された住居はどれも手狭で豪壮なものはありませんでした。どちらかと言えば、そこに「籠った」という印象を持ちます。その晩年古稀庵に建てた洋館は今でも那須に移築され残っていますが、小振りな木造洋館です。那須の「山県農場」も子孫の方が小作人のひと達に分けて譲ってしまったと聞きました。

 薩摩出身の政治家、軍人には幼馴染が多いです。ほとんど一つの町内で一緒に飯を喰って育って来て、お互いに強い絆で結ばれています。長州の方はそうでもありません。伊藤には井上馨という生涯の友がいますが、木戸孝允は孤独だったし、伊藤と山県の関係にはいつも一定の距離感があります。それは伊藤が常に「知」を優先させたのに対して、山県が「武」を持って自らのアイデンティティとして意識していた違いなのかもしれません。しかしながら私はふたりの共通性を「公」の概念に見出します。それはこの二人に限ったことではないのですが、「私」より「公」を優先することが政治家として当たり前だった時代として明治を認識しています。勿論、伊藤にとっての「公」と山県にとっての「公」は別の側面がありますし、特に「議会」というものの位置づけと、その構成要素としての「政党」に対する考え方は全く違っていました。また、山県は日本の軍事力の拡大を目指し続けましたが、軍人の政治への介入は嫌いました。国家の安定と繁栄は望むけれども自分自身が政権を握ることへの執着心は全くありませんでした。それは伊藤も同じです。他に適任者がおらず、自分が内閣総理大臣に就任することで政治の混迷が治まるなら敢えて立つ。そういう姿勢がありましたから辞めるときはあっさりとしたものでした。政治家の潔良さというものが懐かしく感じる昨今であります。

 








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