キンゲン君

東京都赤羽生まれ。ときどき東京の明治、大正、昭和のたてものを案内してます。たてものの建築家やそこに住んでいた人々の話をしてます。日本の近現代史に興味を持ったのは「アジア太平洋戦争の原因」を理解したいという動機でした。そしたら、昭和から幕末まで遡上してしまったというわけです。

キンゲン君

東京都赤羽生まれ。ときどき東京の明治、大正、昭和のたてものを案内してます。たてものの建築家やそこに住んでいた人々の話をしてます。日本の近現代史に興味を持ったのは「アジア太平洋戦争の原因」を理解したいという動機でした。そしたら、昭和から幕末まで遡上してしまったというわけです。

最近の記事

日清と日露。戦争のあとあじ。

 晩年の日本画家鏑木清方に新聞記者が訊ねた。 「明治はいつ頃が良かったですかね」。 鏑木が答える。「ああ、やっぱり、日清と日露の間の10年ぐらいかな」。 この会話のことをずっと憶えていて、気になっていたのだが、鏑木の実感がなんでそうなのか、まったく手がかりがなく、困っていた。   1890年(明治23年)に国民新聞を創刊した徳富蘇峰は日清戦争の後、三国干渉に腹の底から憤慨した。これを境に自分という人間は全く変わったと言っていた。こういうのはわかりやすい。蘇峰はそれから国家の力

    • 弘前の洋館に見る擬洋風建築のスゴさ。

      なぜ、弘前に洋館が多いのか。 明治維新を主導した薩摩藩は九州の南端に位置しました。長州は本州の西端、土佐は四国の南端です。いずれも、江戸から遠く離れ、独自の藩政を敷いていて独立心が強い上に京都との直接的な人脈を持ちながら、軍事、産業においては強く近代化を目指していました。ある意味、辺境である地域から中央政権を改革するエネルギーが起こったわけです。辺境だからこそという見方もできるかもしれません。  では、本州の北端はどうだったのでしょう。 弘前津軽藩は、初代津軽為信(ためのぶ

      • 渋沢栄一の何がそんなに偉かったのか。

        政財界、そして軍部のトップも列席した渋沢栄一米寿祝賀会。   大河ドラマも明治期に入りましたが、クライマックスでは何歳ぐらいの渋沢を描くのでしょうね。    私は1928年(昭和3年)10月1日に米寿の祝いを帝国劇場と東京会館で迎えた渋沢がまず目に浮かびます。参加者1100名、 来賓には時の内閣総理大臣田中義一を筆頭に国務大臣が並び、各国の大使も招かれました。中には、東郷平八郎、山本権兵衛、高橋是清、後藤新平、幣原喜重郎と錚々たる顔ぶれもいます。総代は団琢磨(三井合名会社理

        • 陸奥宗光の再起。その3

          日清戦争開戦の動機と勝算。  陸奥宗光の留学が他の留学事例と大きく異なるのは、その準備の長さと深さだろう。4年4か月に渡る獄中生活は留学の準備期間としては十分過ぎるほど長かった。特にイギリス功利主義の主唱者ベンサムに関する原書購読と翻訳作業は現実のイギリス議会政治を理解するのに大いに役立った。「社会の利益とは、社会を構成している個々の成員の利益の総計である」と説く、ベンサムの「効用原理」は陸奥本来の思考と良く馴染んだ。行為や制度の正しさはイデオロギーではなく、その結果としての

          陸奥宗光の再起。その2

          謀反の動機は何だったのか。  西南戦争前夜、明治天皇は孝明帝の10年式年祭と京都・神戸間の鉄道開通式典のため京都の行在所にあった。同行したのは三条実美太政大臣と木戸、山県、遅れて大久保が参じた。近くにある護衛兵力は大阪鎮台だけである。この機会に土佐立志社の大江卓と林有造らが武力蜂起し、大阪に攻め上る。これを陸奥が率いる和歌山県の徴兵団が支援する。兵力がそれほどの規模に達しない場合でも少なくとも何人かの政府要人を暗殺する。それが大江、林、陸奥の策謀だったが、その計画の全貌は政府

          陸奥宗光の再起。その2

          陸奥宗光の再起。その1

          渋沢栄一、陸奥宗光の留学費を工面する。  1884年と言えば明治17年、西南戦争から7年がたち、明治政府にとって喫緊の課題は憲法の成立と国会の開設だった。西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允も今は亡く、前の年に岩倉具視もこの世を去っていた。明治維新の第1世代の指導者はもういない。政府の中心は参議兼宮内卿の伊藤博文、参議兼外務卿井上馨、そして参議兼内務卿の山県有朋の3人で、大隈重信は3年前の明治14年の政変で下野していた。  伊藤は1年半に及ぶ憲法調査を目的とした欧州旅行から帰国した

          陸奥宗光の再起。その1

          「日本習合論」を読んで

            内田樹氏の「日本習合論」は、日本という国が古来大陸からの宗教文化を受け入れ、自国の宗教文化と融合させ、独自の多様性を身に着けて来たことを説いています。その中で内田氏自身が合気道の武道家であり、能とハングルを学んでいて、フランス哲学者であり、特にユダヤ教の研究者でもあることの意味を語っています。日本人に限らず、個人のアイデンティティというのは、ある意味その習合性の構成要素によることが気づかされます。  わたし達は資本主義経済の高度化の中で分業化、専門化、階層化された自意識

          「日本習合論」を読んで

          春の思想家、冬の将軍。

           伊藤博文は春畝と号し、山県有朋の号は含雪です。 号とは、文人が自らのこころの在処を名付けるもの。こういう心境でいたいという願望もあらわすものでもあります。春畝(しゅんぽ)は春の穏やかな田園風景を想い浮かばせ、含雪は敢えて口に雪を含むことで、緩みがちな気を引き締める気概を感じさせます。これをそのままふたりの性格に反映させて、伊藤の楽観的で争いを嫌う調整役としての態度だったり、山県の慎重で時に臆病と思えるほどの頑迷さに帰すことも可能でしょうが、それは浅慮というものでしょう。

          春の思想家、冬の将軍。

          近代天皇の原型はいかに造られたか。

          「明治天皇」ドナルド・キーン著 新潮文庫全4巻 この本との出会いは、神保町の古書店でした。店の片隅に4冊まとめて置いてあって、そう言えば、明治維新の本は色々読んでいるけれど、明治天皇のことは、ほとんど知らないなあ、と思い。次に、日本文学の研究者であるドナルド・キーンさんが書いているのか、と少し驚きました。  読み始めて、気になったのは、章ごとの注の多さです。出典を明らかにするだけでなく、同じ出来事についての異なる解釈まで引用している。日本近現代史専門の研究者の著作と言っていい

          近代天皇の原型はいかに造られたか。

          坂本龍馬という出来事。

          「坂本龍馬と明治維新」マリウス・ジャンセン著 この本との出会いのきっかけは、日本近現代史の研究者である三谷博さんの「明治維新を考える」(岩波現代文庫)を読んだことです。三谷さんは、この本の冒頭で明治維新の謎として「なぜ、武士が自ら武士身分の社会的自殺を招いたのか」を上げます。その答えとして三谷さんが考えたのが「間接的アプローチ」という考え方です。つまり、最初から武士が自らの特権の放棄を意図したわけでなく、「大政奉還」「王政復古」「辞官納地」「版籍奉還」「廃藩置県」「秩禄処分」

          坂本龍馬という出来事。

          気骨の幕臣、大久保忠寛。

           1853年とその翌年、幕府において目付、海防掛が立て続けに採用されたことは、前々回で書きました。その中にあって、注目の人物として川路聖謨とその弟井上清直、そして岩瀬忠震と永井尚志を紹介しました。  そして今回は大久保忠寛です。前出の外国奉行たちと異なるのは、彼が養子ではなく直系の三河武士の末裔であることと昌平坂学問所の優等生ではないことです。彼は14歳のとき、第11代将軍家斉の小納戸として出仕し、小姓となります。武芸に秀でていて、文事には興味がなかったようですが、やがて書

          気骨の幕臣、大久保忠寛。

          幕末の幕臣、永井尚志と大久保忠寛

           1853年のペリー来航前後、老中首座阿部正弘は旗本から優秀な人材を次々と登用し、目付、海防掛に取り立てました。その中に永井と大久保がいます。このふたりの共通点は、明治まで生き残ったことです。  永井尚志は三河奥殿藩の藩主松平乗尹の庶子として生まれ、3歳で父が亡くなると江戸の藩邸で育ちます。25歳で旗本永井家の婿養子になりました。永井家の禄高は3000石と言いますから、かなり高位の旗本です。永井の最初の仕事は、長崎海軍伝習所を監督したことです。伝習生は旗本、御家人だけでなく

          幕末の幕臣、永井尚志と大久保忠寛

          幕末五人の外国奉行 続き

           幕末の外国奉行たちの顔ぶれを眺めていると共通点がいくつか見えてきます。その第一は養子が多いということです。まあ幼児の死亡率が高かったということも原因ですが、旗本の場合、経済的な収入が家に帰属している点が重要です。つまり後継ぎがいなくなると、家自体が解散になってしまう。使用人も含め一族が路頭に迷うし、ご先祖さまにも申し訳ないということです。そこで、よそから優秀そうな少年あるいは青年を養子にするわけです。では、優秀かどうか、どう判断するのかというと、口コミもありますが、昌平坂学

          幕末五人の外国奉行 続き

          幕末五人の外国奉行 土居良三著

           幕末と言うと、薩長の勤皇の志士とか、倒幕側からの歴史がほとんどで、幕府側から書かれたものは少ないです。特に、日米通商条約をはじめとする幕府が結んだ各国との条約は、明治政府から不平等条約のレッテルを貼られて、これを平等対等なものにするのは、本当に大変だったのだと言われるわけです。無能な幕府の連中は唯々諾々と外国の言うがままに条約に調印してしまったのだと、そういう印象をわたし達は知らぬ間に持たされているのです。本書は、そうではないのだと、ペリー来航以前から老中首座阿部正弘は

          幕末五人の外国奉行 土居良三著

          流人道中記 浅田次郎著

           https://www.amazon.co.jp/gp/product/B08625TBGF?ie=UTF8  いちばん最近に読んだ本から感想書きます。 ときは、桜田門外の変があり、その下手人の探索と断罪に幕府が右往左往していた時分です。直参旗本青山玄蕃は姦通の罪で訴えられる。奉行所は切腹を申し渡すのですが、玄蕃はこれを拒否します。寺社、勘定、南町の三奉行は旗本を打ち首にすることもできず、「流刑」とし、しかも時節がら伊豆の離島では外国の艦隊との接触の可能性もあるので、蝦夷

          流人道中記 浅田次郎著