近代天皇の原型はいかに造られたか。

「明治天皇」ドナルド・キーン著 新潮文庫全4巻

 この本との出会いは、神保町の古書店でした。店の片隅に4冊まとめて置いてあって、そう言えば、明治維新の本は色々読んでいるけれど、明治天皇のことは、ほとんど知らないなあ、と思い。次に、日本文学の研究者であるドナルド・キーンさんが書いているのか、と少し驚きました。
 読み始めて、気になったのは、章ごとの注の多さです。出典を明らかにするだけでなく、同じ出来事についての異なる解釈まで引用している。日本近現代史専門の研究者の著作と言っていいほどの詳細さです。

 明治という時代は、何から何までゼロから造り上げなければならない時代
でした。過去からの延長線上に改善改良で対応できた事は少ないと思います。まず、国家がない、政府がない、軍隊もない、憲法がない、議会がない、国民もいないのです。「国」と言えば「藩」のことですし、「村」のことでした。
 徳川幕府は天領以外の藩からの徴税さえしていないのです。参勤交代や江戸城の修繕事業、治水事業を各藩に委託し、出費させることで管理していたという統治の仕方です。その状態を中央集権制に建て直すのはたいへんな事業だったと思います。
 そうした中で、国家の元首としての天皇をどう造り上げるかは、最も重要な課題でした。確かに、122代続く皇統はありました。しかし明治以前の天皇は京都の御所から出たこともなく、まして政治的決断を迫られることもない。関白太政大臣とかもいましたが、幕府との対応など受け身なものがほとんどでした。
 明治維新の前年、突然孝明天皇が崩御します。後の明治帝睦仁は14歳です。異人の日本上陸を根本的に嫌っていた孝明天皇の死は時代を動かすきっかけになりました。それだけに暗殺説が絶えません。その辺の事情もキーンさんは避けることなく詳述しています。それはともかく、朝廷側からは岩倉具視が策動し、薩摩側からは西郷隆盛、大久保利通、長州からは木戸孝允が戊辰戦争を主導し、まずは太政官政府が始動します。
 14歳の明治天皇が頼りにしていた先帝を失い、信頼できるのは母方の祖父中山忠能(ただよし)ぐらいでした。江戸城が開城し、東京遷都が決まると、明治天皇の京都時代の側近や女官が排除され、薩長の武士出身者が朝廷に入ってきます。明治天皇は30代から40代の元勲らの影響を受け、乗馬を日課とし、漢籍と国学、世界史の進講を受けました。中でも元熊本藩士で横井小楠門下だった元田永孚(ながざね)の論語、日本外史の進講は天皇の道徳観の基礎を造り上げたようです。後に元田は、「教育勅語」の作成に関与します。元田の師である横井は、実学党と称して儒教道徳を基本としながらも欧米の政治体制をよく研究し、明治政府に取り込もうとした人物です。西郷とも勝海舟とも交際がありました。まさに新しい時代の知識と見識の在り方を天皇は元田から吸収したのでしょう。元田はこのとき51歳です。天皇の元田に対する信頼は元田が亡くなるまで絶えることはありませんでした。
 君子とは、どうあるべきか、その徳を儒教から学び、君子と民の関係はどうであったのかを代々の天皇記から知る。情操として万葉の和歌を読み、自身でも生涯で10万近い和歌を御製として詠みました。西洋哲学から西洋史の進講も受け、欧州の王族の動向も知り、慶弔の親書の交換もします。西郷や木戸と親しく接することで人物を見る目も養っていきます。重要なのは、明治天皇が天皇とはどうあるべきかという問いを自身の内に持っていたことでしょう。重臣からのおしつけであったなら、それは負担でしかありません。
 明治天皇が天皇として初めて試みたイベントで重要なのは「巡幸」です。
西国から九州へ、北陸、東北から北海道へ、19歳から32歳の間に大きな巡幸を6回行います。当時決して平坦な道ばかりでなく、酷暑のときも「鳳輦」という神輿の中で移動する行程は楽なものではなかったはずです。巡幸では、地方の特産物の製造現場を訪れ、必ず小学校に出向き、小学生の発表にも耳を傾けました。天皇という存在を全く知らなかった国民に天皇自ら足を運び、声をかける。それは、国民にとっても初めての体験であり、明治維新を実感できる機会でもありました。また、官省行幸といって各省庁の現場に出向き、臣下邸行幸という外出もありました。さらに、陸軍海軍の大演習も積極的に総覧しました。
 1877年、西南戦争で西郷が自裁し、翌年、木戸が病死し、大久保が暗殺されます。元勲の第1世代が去り、第2世代として伊藤博文、大隈重信、山縣有朋が政府を主導していきます。中でも天皇の伊藤に対する信頼は重いものになっていったようです。伊藤が中心となって明治憲法が制定され、山縣が軍人勅諭と教育勅語のイニシアティブを取る。国家の骨格が出来上がるに連れ、天皇の元首としての意識もより高いものに成長していきました。天皇は質素な生活を好み、普段着ている軍服やフロックコートも古くなっても新調せず、修復させました。感情の起伏もあまり表にあらわさなかった。ただ、天皇を悩ませていたのは、内閣が長期に安定せず、首相が辞任を求めることでした。天皇は退任できません。それなのに、総理大臣や宮内大臣、侍従長といった側近は、責任や病気を口実に退任したがる。もう一つの悩みは、議会政治が安定しないことです。国家予算を衆議院が決定しても、貴族院が否決したり、その度に天皇が直接貴族院議長に裁定を行ったりしました。
 また、天皇は非常に禁欲的で、西園寺公望に「朕は京都が好きである。故に京都には参らぬ」と語っています。どこまでストイックなのか。明治の元勲たちが天皇にこうあって欲しいと望み、侍読など儒教道徳を天皇に講義した教師たちの影響以上に明治天皇自身が心底から天皇とはどういう存在なのかを求道者のように求め続けたからこそのことでしょう。
 最後に明治天皇の基本姿勢として特徴的なのは、平和主義です。1894年の日清戦争の開戦にも反対でした。「この戦争は朕の戦争に非ず、卿等の戦争なり」という言葉も印象的です。卿等と言われたのは、外相陸奥宗光と首相伊藤博文のことを指しています。平和主義と書きましたが、そういうイデオロギー的なものではなく、日本陸海軍の兵士が、つまりは日本国民が、命を落とすことを天皇として極力嫌ったのだと思います。しかし、開戦が決定し、詔勅が発せられると、明治天皇は広島大本営に居を移し、日清戦争の指導に積極的に関わりました。暖房器具の設置も嫌い、前線の兵士と同じ環境を望みます。それから10年後の日露戦争開戦のときも有名な「四方の海、みな同胞(はらから)と思う世に、など波風の立ち騒ぐらん」という歌を詠み、その心は、アジア太平洋戦争開戦時の昭和天皇に継承されていきます。日本国民の生命だけでなく、アジア同胞へと意識が拡大しているのがわかります。日露戦争で日本陸軍が旅順を陥落し、勝利の報に接した天皇は歓ぶ様子もなく、敗北した露軍のステッセル将軍の名誉を損ねないようにと注意しました。

 文学者であるドナルド・キーンさんは、なぜ明治天皇を書いたのでしょう。あとがきでは、明治を語る日本の歴史書の中に明治天皇の記述が少なかったことを語っていますが、それだけが動機とは思えません。
 近現代日本人の心性の源流が明治天皇に象徴されると考えたのではないでしょうか。明治天皇のように欧米列強の元首を意識して、恥ずかしくない存在となるべく努力したアジアの元首はいませんでした。清朝皇帝は中華思想の中心にいましたから海外の元首のことなど意識しません。その姿勢は李朝朝鮮も同じです。そして日本国民は天皇がイギリス国王やドイツ皇帝に比しても優れた元首であることを自らの誇りとしていました。儒教道徳を信奉しながら和歌に親しみ、西洋哲学も理解し、海外から来日する欧米の皇太子や大使からも敬意を受ける存在。そして何よりも日本国民生活の安寧を祈って止まない天皇。政府や軍はあくまでもその天皇を輔弼する者として機能する。この心性が昭和の敗戦の日まで継続していく。そして敗戦後もその外形は変わるものの心性は継続している。キーンさんが研究対象として興味を失うことのなかった三島由紀夫もまたこうした心性の延長線上にいた。
 近頃、大日本帝国と戦後の日本国をつなげて考えることがナショナリズムを助長しているという歴史観も散見しますが、何がつながっていて、何がつながらないのか、丹念に吟味する必要があると思います。


 

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