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どうしてこんな親元に生まれてきたんだろう?
二人とも背が低く母親は138センチ、父は155センチ しかもひどい短足で
母親は田舎の部落出身で兄弟8人の人間関係のいざこざで物心ついた時は電話口で長いこと悪口しか話してなかった。
父親は無理矢理、高校卒業と同時にブラック企業に事務員として私を就職させた。
好きなことをしたかったのに、けど当時18歳の私は家を飛び出して一人で生きていく勇気さえなく親に従うしか方法がなかったのです。
職場で親切に面倒を見てくれる18歳年上の男性と初めてのキス。
車の中でキスをされ、私もこの人のことが好きなのかなあ?そんな錯覚に陥りました。相手は既婚者。
それがきっかけでキスから次の段階へと進み、けれどどんどん進んでいくにつれ若き18歳の乙女でもこんな狭い世界で生きていきたくはない!と頭の片隅でそう思っていたのでしょう。自分の人生を捧げるほどこの人のことは好きじゃない。
ここから脱出したい!親が許してくれる方法はなんだろう?
そう考えた挙句、県外就職は許してくれない。語学留学が一番手っ取り早く理解を示してくれました。

心のどこかで親が私の人生をダメにしたと恨んでいた部分もあったのでしょう。
長いこと滅多に親に連絡することもなく時折来る母親からの手紙もどれほどうざーく感じたり、早く親を無くした知人のことを羨ましく思ったり。

ここ数ヶ月前にどこかの国の移民の子供、10歳くらいの女の子が私の背丈ほどある洗濯物家族6人分二十キロありそうなくらいの量をカートで運びコインランドリーで洗濯してる姿や20歳の中南米の男の子は妹と弟の幼稚園、小学校の送り迎えに夕ご飯作り、買い出し、家の掃除、と自分の学校の勉強とで彼女を作る暇がないと話してたのを聞いて、ふと子供時代の幸せだった光景がフラッシュバックしました。
いつも栄養のある野菜や魚を料理したり味噌や梅干しも手作りでおやつまで手間暇かけて作ってくれたこと、洋服も作ってくれたこと、自分は身長が低くてスーパーの棚卸しなども背が届かないため、早朝の新聞配達と夏場は時々、母の幼馴染の土方のおじちゃんのお手伝いに建設業の仕事に行って生活費を賄ってくれたり父親は日曜日や正月も仕事で休む暇なく頑張って私たちのために働いてくれたこと、それでも休日はたまに海水浴や遊園地など連れて行ってくれてた。
行事で朝早く起きて学校へ行かないといけないときには送り迎えもしてくれた。
身長138センチで貧しい部落の農家で生まれた母は祖父母がなんとかして死なせないと頑張って山に行って薬草や少しでも栄養のあるものを食べさせて生き延びたものの身長は伸びなかった話も聞きました。
母の後に生まれた双子の女の子は栄養失調で生後数週間の短い命だったそうです。
祖母は82歳で亡くなる直前に双子の女の子が迎えに来てくれてると言ってたと母から聞きました。
母は体が小さいため、お医者さんから子供は産めないと言われたそうで帝王切開で子供を産みました。当時の技術では産んだ後も数週間痛くて動けなかったそうで
心から命懸けで産んでくれたんだと思うと涙が止まりませんでした。
恨みはらみを唱えて生きてきた自分が情けなくて同時に感謝の気持ちを持てたことが嬉しくて。
初めて親に子供時代から今までたくさんの愛情を注いでくれたことに感謝の手紙を書きました。
私は胴長短足で座高は体を3等分するとそのうち2等分は座高。足は1等分。
だから足は異常に太く生まれて一度もミニスカートは履いたことはないんですね。
それも深いコンプレックスで恋愛に対しても自分に自信が持てない理由の一つでもありました。だから恋愛から逃げてもいた。

親に感謝の手紙を書いて、たくさんの思い出がどんどん浮き出てきて
その一つ一つに感謝の気持ちと幸せな気持ちを思い出すたびに
私は自分の体のことがどんどん大好きになりました。

産んでくれてありがとう!
貧困の中から一生懸命命を繋いでくれた祖父母にも感謝の気持ちでいっぱいです。
半世紀に渡る自分の人生は”ありがとう”そんな感謝の気持ちに気が付き感謝の気持ちを持てるまでの長い長い旅だった気がします。
本当の幸せはふたつ。
”健康”と”感謝の気持ち”を持てること。


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