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宇治を歩く(その3)
「またいらしてくださいね」
先生の優しい言葉に見送られて、対鳳庵を出た。また来たいと思う場所ができた。うれしい。
瀬田ダムの放流が終わり宇治川の水位が下がると、中州へ渡れると先生に教えられて行ったものの、まだ橋は封鎖されたままだ。川の向こう、朝霧橋を渡ると、宇治神社、宇治上神社がある。中州にも古跡がある。宇治・瀬田は、中世の合戦のハイライトとなる場面があるのだ。今回は残念ながら川越しに眺めるに留めて、また宇治橋へと戻る。
再び宇治橋を渡って、今度は「さわらびの道」へ。「さわらび」とは早蕨、芽が出たばかりの蕨のことだ。宇治十帖の中で、中君が姉の大君を偲んで詠んだ歌から引用され、巻名にある。
山が近いので傾斜のある坂道が続く。木陰を見つけながら歩き、宇治神社、宇治上神社を巡りながら源氏物語ミュージアムへ向かう。宇治上神社は、大君、中君の父、八の宮の邸があった場所のモデルと言われる。檜皮葺の社殿がおごそかだ。
対岸の平等院は、藤原摂関家の別荘跡を寺院にしたものだ。宇治はかつて、埋め立てられる前の巨椋池の水路を使って、都と行き来できた。さらに奈良へ抜ければ藤原氏の氏神となる春日大社があり、藤原氏の一門は春日詣をしていたが、その中継地ともなる。宇治は「源氏」の物語の舞台として、うってつけなのだ。
大津の旅で、都である京都と逢坂の関、打出の浜、石山寺の配置を理解すると、物語のリアリティがぐっと湧いた。宇治でも「源氏」のストーリー展開に破綻がないことがわかる。
なにより物語世界に自分が入り込んだようで、ぐっと楽しくなってくる。
青紅葉の木陰を抜け、源氏物語ミュージアムへ辿り着いた頃には、顔じゅうに汗が噴き出してきた。エアコンの効いた室内で水分を摂り、一息つく。
源氏物語ミュージアムを訪ねるのは、3度目だ。外国の方も含めて、観光客の方のなんと多いこと。展示スペースを照明で彩る紅葉の投映に、中国語を話す子どもたちが喜んで跳ね回っている。以前来た時は、もっと閑散としていた。海外からは別として、日本の観光客が多いのは、大河ドラマの影響なのだろう。
展示が新しくなってから行くのは初めてだった。宇治十帖の場面を人形が再現した展示など、見覚えのある展示もあってさらりと見ようとしたが、以前も見たはずなのに忘れていたりした。新しく見たものでは、源氏香を体験する展示が面白かった。
ゆっくり回るうちに、ようやく汗がひいた。
源氏ミュージアムを出て、せっかくだからお茶のスイーツも味わおうと、前も訪ねた覚えのあるお店へ行ってみた。でも順番を待つ人の列があまりに長い。帰宅後にお茶受けにするお菓子だけ選んで、店を後にした。最初に車を停めた、交流施設「茶づな」へ向かう。
「茶づな」のロビーには人が絶えない。お土産を並べた奥に、広いカフェスペースがあった。かき氷もいいなと思いつつ、2人でパフェを選ぶ。夫は抹茶、私は珍しい冷やし飴のパフェ。テーブルに置かれたパンフレットに目を通すと、京飴を作るお店が携わっていることがわかった。だから冷やし飴なのか。パフェの上に乗せられたアイスクリーム、口に入れるとほんのりニッキが香る。甘すぎず、さっぱりした口当たりが気に入った。
カフェスペースの大きなガラス窓の向こう、こんもりと緑が生い茂る菟道稚郎子墓が見える。
菟道稚郎子“うじのわきいらつこ”とは、応神天皇の皇子という。宇治神社、宇治上神社に祀られており、古事記や日本書紀に残る人物だ。名前の中に“兎”、ウサギがいる皇子とは、可愛らしいな。
寺社仏閣もそうだが、国の中心が近畿にあった古代から平安王朝、中世の戦地、太閤堤、さらに明治期の煉瓦工場の跡まで、限られたエリアで日本の歴史を辿れる古跡が残るというのも、宇治はつくづく面白い街だと思う。
宇治を歩きながら私が考えていたのは、「なぜ紫式部は源氏を書いたのか」ということだった。
交流館で見た大河ドラマの展示の冒頭に、時代考証をつとめておられる歴史学者の倉本一宏氏のコメントが掲示されていた。そこに書かれていたことは、私の疑問への答えの1つとなり得るものではあった。
それほど恵まれない受領階級の、夫に先立たれた一女性が、なぜ、あれほどの長編小説を書けたのか。それもただのフィクションではなく、史実に準拠した皇位継承と政治権力の抗争のあるストーリーであり、優れた人間観察の上に、古典への深い造詣がなくては書けない物語だ。
どのように「源氏」が書かれたか、これまでさまざまな研究者や作家が、専門の見識から考察してきた。「源氏」の成立論には数々の研究や書物がある。それらを私も初心者なりに読み重ねてきた。
高校生だったある時、恩師に、
「どうして紫式部は『源氏物語』を書いたの?」
と、尋ねられた。あなたはどうしてだと思う? と重ねられて、答えに窮した。
恩師には授業で古典を教わった以外にも、人生の折節を見守り、私が書き続けられるよう励ましてくださった。
先生のお尋ねに、その時の私は咄嗟に、どこかで読み齧ったことを確信なく答えたと思う。先生はにこにこしながら私の答えを聞かれた後、私に答えるともなく、
「さあ、どうでしょうねぇ」
とおっしゃった。そして、
「〇〇さん(私のこと)が私の年代になる頃が、楽しみですねぇ」
と呟かれたのだった。
その時、私は、先生がおっしゃった意味をまるでわかっていなかった。
宇治十帖の最後のヒロイン・浮舟は、苦悩の末に文字通り生まれ変わって、結果、究極の主体性を現した。浮舟は、本編のヒロインの1人であるはずの紫の上でさえ果たせなかった出家をやり遂げて、物語を終えたのだ。宇治橋で私が感じた“ぞわり”の感覚の正体は、浮舟の心情をなぞらえて、彼女が自身の主体性を選び取った“覚悟”のほどだったのかもしれない。
他者と出会い、関わり合いながら生きていく中で経験した喜びや痛みがあって今がある。あの頃には知らなかったことを知って読み重ねてきた今なら、千年も昔に生きた一女性と心情を深く共有できるのかもしれない。
宇治からの帰り道、先生がおっしゃっていたのはこのことなのかな、とおぼろげに考えた。
紫式部はなぜ「源氏物語」を書いたのか。
宇治を歩きながらたくさん考えたけれど、思索はまとまらないままだ。
手に負えぬほどの大きな命題に、いつか私なりの答えが見つかるまで、歩き、人生を探求し、そして、また書き続けるのだろう。
(「宇治を歩く」終わり)