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過去も今も未来もない。『生きている状態』が在り続けているだけ。
今月で30歳を迎える。
社会人になってから毎日続けているジャーナリングを振り返ると、自分の変化の歴史がわかる。
特にこの半年間で、全く新しい環境と孤独の中で価値観が破壊され、新しい自分になっている感覚がある。
これまでの人生で、この半年間ほど泣いた日々もないだろう。
だからこそ、自分に期待して20代最後の学びを時系列でまとめる。
心:仕事を楽しむ心を持つ事を許す
リクルートに入社して2週間たった頃に、同じグループのW先輩に新横浜駅のPRONTOで言われた言葉を思い出す。
「みっちーはガーーッと何かに突っ込んでいくタイプだから、うまくハマった時はいいけど、間違った方向に行った時にいかに早く方向転換するかが課題になると思うわ。」
「なるほど。わかりました。」当時はメモだけ手帳に残していたこの言葉通りの場面にその後よく出くわした。3年くらい前から猪突猛進で視野が狭くなるこの思考の癖をハッキリ自己認識しているが、特に仕事へのスタンスに如実に現れていると思う。
この6年間は『楽しむ』感情をどこかに置いてきた年月だった。
学生は部活、サークル、勉強に励み、毎日を楽しむ。
社会人は平日は仕事に励み、休日を楽しむ。
「働く事は苦しく茨の道であるのが当然で、その道中に楽しいという感情は不要な荷物」という考えがあり、学生は『楽しさ』、社会人は苦しい事を超えた先に得られる『充実』を求める過ごし方が当然だと思っていた。
だから「仕事楽しい?」という質問をされると答えに窮して、「楽しいとは思わないけど、充実しているよ!」といつも決まり文句を返していた。
平日はしんどいながらもToDoをこなし、目標を達成した時にだけ充実感を得て、やっときた休日を楽しむ社会人は多いのではないだろうか。
思考の癖で「仕事は楽しんではいけない」と視野が狭くなっていたと理解しつつ、「そもそも過程を楽しむ心を忘れ、目標達成の時だけ充実感を得る生き方を疑わないのは何故か」と考えていた時に、オランダ人の親友に言われた言葉が僕には刺さった。
「日本の『これからだよ!』という文化はおかしいと思う。
高校受験が終われば、『これからだよ!いい大学に入らないと。』
大学受験が終われば、『これからだよ!いい会社に入らないと。』
就活が終われば、『これからだよ!いよいよ社会人だからね。』
って言われるけど、このChase(競争)はいつ終わるの?」
高校生までは持てる力を使って一生懸命に勉強に励んできたつもりだ。
大学時代は人生の夏休みだった反動もあり、社会人になったら仕事に打ち込むのが当然と思っていた。そこに思考の癖も相まって「楽しさ」は要らないと信じきっていた。
周囲からの期待や比較の中で学生時代に勉強に励み、目標達成自体がベルトコンベアのように次々と過去に流される経験を積んだことで、過程を楽しむ事を忘れてしまった社会人も多いのではないだろうか。
集団主義の文化を持つ日本社会の教育システムの上で、学生の僕はあまりにも無力だった。
日本では受験戦争という言葉に代表されるように、テストや定期試験の点数が教育評価の中心を占め、その結果が「将来を決める」風潮がある。生徒は全員テスト結果に基づいて順位付けされ、偏差値というレール上で他者と競争を強いられる。
この義務にただ従って生きていくので精一杯だった。
目標を達成する事は誰にとっても喜ばしい事だと思う。
僕は他の人同様に目標達成をするのが好きで、さらに仕事だけでなく勉強でもスポーツでも高い目標を設定する性分がある。
ある意味で抽象度を上げて考えれば好きな事をやっている以上、仕事で高い目標を掲げて自分を追い込む癖はなくならないだろう。
でも自分の力で新しい挑戦をした経験を通じて「仕事は難易度や時間軸どれをとってもこれまでのどんな壁より高い」という事実を認められた。
この時初めて、仕事において「楽しむ」は邪魔になる要素ではなく、動き続けるために必要な要素だと理解ができた。
やっと、仕事を楽しむ自分を許してあげられるようになった。
機会:日々の成長を感じる機会を創る
『仕事を楽しむ価値観をどのように取り入れるか』を考える日々が続いたある日、受験期を思い出した。
プレッシャーや苦難もあったはずなのに、あの頃は毎日が楽しかった。
勉強それ自体が楽しいというより、勉強は自分の成長を実感するのが簡単だった。当時の自分のレベルを考えたら、英単語1つ覚えただけでレベル1進化できている感覚を持てたからだと分かった。
この成長実感がとても楽しかった。
『仕事や仕事の成果だけでなく、自分の成長過程を楽しむ』
この気づきは『目標達成≦日々の成長実感』という大事な価値観を自分に取り戻すきっかけになった。
仕事には外部要因やプレッシャーもあり、仕事それ自体にも辛い要素が詰まっている。成果に繋がるまでに時間もかかる。
だからこそ目標達成というゴールだけでなく、朝起きた時より寝る前の自分が前に進んでいる事を成長としようと決めた。
これが仕事に『楽しむ』価値観を与えてくれた。
この心を持つために必要な考え方がある。
今日の自分の成長を認めてあげるためには、短期の目線だけでなく長期の目線を持つ事だ。
短期の視点だけで物事を考えてしまうと、目の前の現実に一喜一憂してしまい、結局何も動けなくなってしまう。実際そういった辛い経験を何度もしてきた。もう懲り懲りだ。
自分の性分からして、今後もマラソンのようにペース配分を考えるのではなく、短距離走の繰り返しのような仕事感で働くだろう。
だからこそ、長期と短期の両方の視点をカーナビにセットし、自分の成長を楽しむ事で仕事を楽しむという価値観をガソリンにして、前に進んでいくと決めた。
同時に、5年前にリクルート時代のT執行役員の言葉をふと思い出した。
「仕事と人生は相互に影響し合うものでバランスは取れない。必要なのはワークライフバランスではなくワークライフハーモニーだ。」
この言葉に5年越しに背中を押された気がしている。
このメッセージは仕事以外の人生を楽しみ豊かにする事が、仕事にもいい流れを生み、結局は仕事以外の人生にも更に良い流れを生むという事に他ならないだろう。逆もまた然りだ。
一度きりの人生を楽しむためにも、自分の定義で仕事を楽しむ心が必要だとわかった。
時間:『過去も今も未来もない』という考えが人生への誇りを育てる
「あー、ずっと味わってたい。」
美味しい寿司ネタや肉を食べる時に、よく噛んで味わう経験を誰しもした事があるだろう。
このような『幸せ』や『楽しい』などの実感の積み重ねが、一瞬にして過去に変わる「今を生きる」心を創ると思っていた。
だが、実践するのは非常に難しかった。
ましてや、文字通りに一瞬一瞬の全ての経験に意識を向けるなんて、自分にはできないとすぐにわかった。
でも巷には「今を生きろ」というメッセージが溢れている。
書店やYouTubeを見ればそのような言葉ばかりが踊っている。
『そもそも、今を生きるとは一体どういう意味なのか。』
漠然と頭の片隅に問いを置きながら過ごしていたある日、モロッコで遊牧民として暮らしていた人と話をする機会があり、その時に聞いた話が目から鱗の衝撃だった。
『モロッコと日本では時間が同じではないよ。』
日本で採用されている太陽を基準にした暦の『太陽暦』。 それに対して、モロッコで採用されている月の満ち欠けを基準にした暦の『太陰暦』。
基準が異なるのだから、僕らと彼らの『時間』は同一ではない。
事実、太陰暦の1年は29.5日×12ヶ月=354日と1太陽年に比べて11日ほど短く、その差は3年でほぼ1か月に達する。
ヘンリー・フォードが工業化に伴う生産性向上のために「時給」という概念を生み出したという事、地球と宇宙では時間が異なり国際宇宙ステーションと地球で暮らす双子は年齢に差が生じる事などを知識としては知っていた。
でも、これらの知識をそれ以上気に留めた事がなかった。
絶対的な時間は存在しない。
僕にとっては目が飛び出るくらいの気づきだった。
社会をシステマティックに動かしていくには、1秒、1分、1時間、24時間といった単位があった方が簡単だろう。
だが、本来この世には絶対的な時間の単位が存在しないのだ。
これまで、『今』が一瞬にして終わり積み重なったものが『過去』であり、まだ『今』になっていないものが『未来』であると信じていた。
『絶対的な時間の単位がないのであれば、同じく時間の流れを意味する過去、今、未来も曖昧なものになるのではないだろうか。』
答えは日々の実体験から導かれた。
例えば、頭の中に文章を描き、手を動かして入力しようと考え、実際にnoteに入力した瞬間に『未来→今→過去』になってる。
つまり、物事は『過去』にも『今』にも『未来』にさえもなるのだから、切り分ける事ができないのだ。
言うは易し行うは難しで、今だけを切り分けて、「今を生きる」事なんて不可能だと感じた。
むしろ僕にとっては、切り分けるというより『何かがずっと川の流れのように続いている』と解釈した方が理解しやすかった。
その時に、パッと頭に浮かんだのがパラパラ漫画だ。
![](https://assets.st-note.com/img/1729627021-fGP8BtNwLM2hZpYRx9WJOEAI.jpg?width=1200)
1枚1枚を個別にめくっても、ストーリーはわからない。
でも、全てを一度にめくれば、そこにストーリが浮かび上がる。
1枚1枚が個別の絵の状態でしかなかったものが、流れを生み、それがストーリーを形作る。
僕にはこれが人生と同じように感じられた。
目に見えない流れの中で、生きている状態が在り続ける。
言い換えれば、生が死に辿り着くまで積み重なり続ける。
これを俯瞰して見た時に映るストーリーが人生と呼ばれるものなのではないだろうか。
過去も今も未来も存在しない。
つまり、人生を時間で切り分ける事はできない。
そこには『生きているという状態』しかないのだ。
この世に生を授かってから、生きている状態が続いているだけだ。
この気づきは僕には非常に腹落ちできた。これをきっかけに『生きている』という自分の人生への実感を持てるようになった。
同時に、自分の歩んでいる軌跡にも焦点が合うようになった。少しずつでも歩みを進めている自分とそのストーリーに誇りを持てるようになった。
これは自己肯定感、ましてや慢心や驕りではない。
これまで客観的な評価や基準を達成することで、自分に自信を持つようになり、そんな自分を好きでいた。
でも今は違う。
日々前に歩んでいる自分、真に自分で決めた目標に進む自分を認めることで、挑戦と奮闘を繰り返す自分の人生に自信と誇りを持つ事ができ、やっと自分を好きになる事ができた。
日本:日本を誇りに思う心を持つ
物事は基本的に全て表裏一体であるというのが僕の考え方だ。
言い換えれば、捉え方次第という意味だ。
前述した猪突猛進の思考の癖、日本の教育システムにも良い面悪い面がある。例えば、猪突猛進だからこそ、一歩踏みだす意味不明な勇気を持つ事ができ多様な経験を積めた。周囲と競争する教育だからこそ、身の丈以上の目標に向かい勉強に励み成長する事ができた。
全く想像もしていなかったが、意味不明な勇気を持って行動した経験から、人生最大の誤解と言ってもいい考え方を変える機会に恵まれた。
それは、日本の将来に前向きになれた事だ。
ネガティビティバイアスを利用したメディアの報道、戦後のGHQによる学校教育、日常的に目にする広告、謙虚な国民性、僕の性分など原因は複雑に絡み合っているが、日本にいる間の僕の中では『欧米』というワードが勝手に一人歩きし、なにか神々しく巨大で絶対的な存在になっていた。
でも、EUの社会システムの中で生活し、事業を行い、地続きの欧州で色々な国を渡り歩いて分かった。
彼ら/彼女らも同じ人間だ。
謙虚になりすぎる必要も、ましてや恐れる必要もない。
尊重はするが対等だ。堂々としていればいい。
このシンプルな気づきは、僕の人生に非常に大きな意味を与えてくれた。
NYの次に人種が多く180カ国の人が住むアムステルダムで、アニメや日本食などのコンテンツだけでなく、「つつましさ」「お一人様」となどの価値観、「衛生レベル」「社会インフラ」などの生活面を評価して『日本に住みたい』と話す人に何人も会ってきた。
素直にとても日本を誇らしく思う事が多かった。
もちろん、日本にも課題は山積みで欧米を見習うべき点はある。
戦後の焼け野原から急成長を遂げた後、今日、多くの壁にぶつかっている。
でも、全てが表裏一体なのだからGood&BadではなくGood&Moreの構造で考えるべきだ。
だから、僕はメディアで思考停止して日本へ悲観論を話すだけの人や、片方の側面しか見ずにダメ出しをする人間が大嫌いだ。
このように考えるようになったのは、日本が好きな外国人の方々に会ったからだけではない。
前述した『自分が少しでも前に前進できているか』という価値観を持つようになり、全てが積み重ねであり、全ては繋がっていると理解できてから変わってきた。
僕らの世代は先人の恩恵を受けられている世代だ。
歴史を見れば首都が焼け野原になり核爆弾を2発も落とされた唯一の被爆国でありながら、復活を遂げたのが日本だ。
まず、先人の功績への感謝を噛み締める。
次に、先人の功績の上に成り立っている現代の日本に感謝をする。
そして、正しくGood を把握した後はMoreを対処していくだけだ。
伸び代しかないのだ。
日本は世界でもっと輝ける。
日本にいた頃のような漠然とした不安は払拭された。
海を越える決断、感謝と前向きな考え方が、自分の中にあった日本を誇りに思う心をさらに育ててくれた。
流れ:自分は生かされている身分だと知る
常々思うが、自分が在るのは全て環境のおかげだ。
それはnoteで書いたような『選択できる』環境より、偶然『巡り合う』環境だと感じる。そのなかでも『人との巡り合わせ』が最たるものだろう。
日本人が全くいないエリアで暮らしていて、世界には沢山の人がいると実感する。彼らから見たら僕の人生がどうなろうが関係ないし、死んでも世界に影響は全くないだろう。
そして人は半径5メートル以内の人だけと生きていく事もできるだろう。
でも、この29年間で多くの人との巡り合わせ(=ご縁)があった。
これは自分が「得よう」と試みたものではない。
恵まれたものだ。
本当に不思議なのだが、自分が困っている時や必要としている時にこそ、連絡をもらえたりする事がある。
連絡が繋がってしまう不思議がある。
大人になればなるほど、論理的に説明できるものや言語化できるものに目がむきがちになっていると感じるが、こういった自分の意図していない事が自分の人生のすぐ隣に在る事実に改めて気づく。
先月、非常に悩んでいた時間が長かった。
その時に、急にある社長から電話がかかってきた。
いくつも会社を成功させて忙しいのに、時間をかけて話を聞いて頂いた。
忘れないようにその時の言葉を抜粋して残しておきたい。
Michiは自分が楽しむことを許してあげるべきだ。
感動する心を持っているのに、それを良しとしないところがある。
今の挑戦を当然のように考えているが、もっと誇るべきだ。
誰にでもできる事じゃない。
何よりも自分自身に誇りを持った時に人は初めて強くなる。
自分の人生に対して責任を持つからだ。
可能性が無限大のうちは全ての可能性に飛びつきなさい。
将来何をやっているかなんて分からないのだから、今の時点で可能性を堅苦しく考えて、自分の行動を制限しないこと。
それは将来の自分に失礼だ。
悩んでいた事が見透かされているかのような突然の電話に、理屈では説明のつかない不思議な縁を感じた。
自分が選択してきた出来事が人生を形作ってきたのも事実だ。
だが、人とのご縁に代表されるような『自分のコントロールの及ばない力で与えられてきた出来事』や『理屈では説明できない巡り合わせ』が自分の人生の大半を形作ってきてはないだろうか。
これが腹落ちした時に『自分は生きていて、生かされている身分』だと感じ始めた。
見えない大きな流れに身を任せて、ここまで生かさせて頂いた。
これが事実だからこそ、生かされている身分の自分が周囲の助けになる事があるのなら応えていきたい。
心踊る方向を向き行動すれば、見えない大きな流れが生まれる素晴らしさをこれまでに沢山経験させて頂いた。
自分にとっての「人生を楽しむ」の「楽しむ」はFunだけでなく『Exciting』の意味を持つと分かった。
「この『Exciting』がやがて『Enjyoing』になるんじゃないかな〜」とオランダ人の友達にも言われたばかりだ。
明確な目標を立てて逆算して進む事も大事だが、偶然の出来事の積み上げで進んでいく事はそれ以上に大事だと感じる。
だからこそ、予想外の出来事や人生の不確実性にExcitingしながら、これからも決断と挑戦し続けよう。
自分に期待し続けながら自分を好きでいよう。
30代の10年間がこれまでの人生で最高に楽しみだ。
There is only way no one can walk besides you in the world.A field's reaching where or, you aren't supposed to care. Advance earnestly.
(世界には、きみ以外には誰も歩むことのできない唯一の道がある。 その道はどこに行き着くのか、と問うてはならない。ひたすら進め。)