歌集を読むことは宝探しである

僕は短歌が好きだ。
そこで、僕なりの歌集の読み方を書きたいと思う。

それはタイトルの通り、歌集を読むというのは宝探しであるということだ。


歌集とは、短歌のみが書かれた本であり、1ページに4首から、少ないと1首程度が収められている。

なので、小説や実用書とは異なりその気になればスラスラと読み進めていってしまう。

勿論、各々が好きな風に読めばいい訳であるが、僕としてはただ読んでいるよりは、何か目的を持って読んだ方が、より短歌を楽しめると思う。


そこで、僕が提唱したいのは宝探しをするつもりで読むということだ。歌集は数百首の短歌が収められているが、そのどれもが与謝野晶子でいう

やは肌の熱き血汐にふれも見で寂しからずや道を説く君

のように、あるいは俵万智の

『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

のような100点満点の後世に語り継がれる名作というわけではない。作者の何気ない感情や、日常を歌ったものが半分以上を占めている。

宝探しとは、その中で自分にとっての100点の歌(点数をつけるなんて烏滸がましいが)を探すということである。他にわかりやすい例でいうと萩原慎一郎さんの

きみのため用意されたる滑走路きみは翼を手にすればいい

などはその典型であり、きっと歌集のタイトル『滑走路』もこの歌から取っている。他には中村森さんの

「忘れて」と「覚えていて」を後悔の海に置いたらどちらが沈む

『太陽帆船』

は、僕が好きになるきっかけともなったくらいに好きな歌で、「こんな歌が詠めたら人生に悔いなしだな〜」などと思ったりするほど大好きな歌だ。


歌集は読みやすく、身構えて読むものでもないのかもしれない。だが、気軽に読めるということは裏を返せば、さらりと流し読んでしまうこともあるかもしれない。

もちろん、深く考えずともいいものはいいと勝手にわかるものかもしれない。自分だけの宝を探すつもりで歌集を読んでみたら楽しいよ〜というお話であった。

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