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長生きしたことによって領土を守ることができた前田利家
加賀藩は「加賀100万石」の大藩として有名であり、
江戸時代を通じて幕府の次に石高が多い藩(藩の中では一番石高が多い)として知られていました。
そんな加賀藩が石高を維持できた最も大きな要因は、
加賀藩の藩祖にあたる前田利家が豊臣秀吉よりも長生きしたという点がかなり大きいでしょう。
秀吉は1598年に亡くなり、利家はその翌年の1599年に亡くなっています。
秀吉は大名たちに結構大きな石高を与えるのですが、そのかわりとにかく厳しい人でした。
その大名が亡くなり、後を息子が継いだ場合には大体今までの石高から大きく減らされてしまう傾向が強いです。
「これだけの領地を与えたのは、その大名の活躍を認めたのであってその息子であるお前の活躍ではないのだぞ!」という秀吉のメッセージが込められています。
実際に丹羽長重は、父の長秀が亡くなった際に、
今までの領地である越前国、若狭国、加賀2郡123万石を召し上げられ若狭1国の15万石にまで減らされてしまいました。
また蒲生秀行は、父の氏郷が亡くなった際に、今までの領地である会津92万石を取り上げられ、宇都宮18万石の大名に転落しています。
当初の予定では2万石にまで落とす予定だったそうですが、結局18万石は与える形で話がまとまりました。
正直思ったよりも石高が減らされていてびっくりしますよね。
そこまで父と子で差をつけるのかという気持ちになりました。
改易や減封に厳しいと言われた江戸時代初期でさえ後継ぎの息子がいればそのままの領地を相続できたので、
豊臣政権は初期の徳川政権よりも大名に対して厳しいなというのが感想です。
この例があるため、利家も秀吉の前に亡くなっていたとしたら、おそらく息子の利長は10万石~20万石程度にまで減らされていたでしょう。
そうなると加賀100万石のフレーズも江戸時代に存在しなかったことになります。
これは家康も当てはまるのではないでしょうか?
家康が秀吉より先に亡くなっていたとしたら、家康の関東250万石が、息子の秀忠にそのまま与えられるとは到底思えません。
おそらくこちらも相当減らされて20万石から30万石にまでなると予想します。そうなれば後の江戸幕府は開かれていなかった可能性が高く歴史が大きく変わることになったと思います。
前田利家、徳川家康がその後大きな領地を子孫の代まで残すことができたのはもちろん本人の力や家臣の力があることは間違いないですが、
この2人が秀吉よりも長く生きたということが大きく関係ありそうです。
戦国大名にとって戦が強いことや内政が上手なのは、もちろん大事なことですが、長生きできたかという要素もかなり重要だなと記事を書いてて改めて思いました。
もし長生きしていたら上杉謙信はどうなっていたのでしょうか?