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薩摩藩主の島津斉彬は父に嫌われていた
薩摩藩の11代藩主で幕末の四賢侯とよばれた一人に島津斉彬(1809~1858)がいました。
斉彬は西洋のモノに強い関心を示し、海外から伝わったカメラを独自に研究していくうちに撮影に成功しました。
日本人で一番古い写真が残っているのは斉彬の写真だと言われています。
また集成館という近代的西洋工場群を薩摩藩内に設置するなど、藩内の近代化を最も進めた人物です。
しかし、そんな斉彬は父の島津斉興(1791~1859)から大変嫌われていました。
斉興は息子の斉彬をとにかく藩主にさせたくなく、斉彬の弟の久光を藩主にしたいと考えていました。
でも不思議ですよね。
斉彬みたいな有能な人が藩主になるなら親としては普通嫌がるどころか、むしろうれしいのではないかと思いますよね。
ただ、父の斉興が斉彬を嫌っている理由ははっきりと伝わっています。それについて今回は話していこうと思います。
嫌いな理由:西洋かぶれだから
斉興は斉彬が西洋かぶれだったために嫌っていました。
薩摩藩は最終的に西洋から強い武器を購入し、
その力で幕府を倒しているわけですから、薩摩藩にとって西洋とはなくてはならない、つまりありがたい存在でした。
しかし、あくまでそれは倒幕時の話であり、
それより数十年前の薩摩藩では西洋という存在は藩財政を悪化させる厄介なものでした。
ちょうどその困難な時期に、斉興は藩主をやっています。
これを聞くとなんとなく西洋かぶれの人を斉興が嫌っていた理由が少しずつ見えてくると思います。
薩摩藩では島津重豪(1745~1833)という人によって、ただでさえ赤字の財政がもっと赤字になってしまいます。
この重豪という人は斉興の祖父にあたり、超がつくほどの西洋好きでした。
重豪はひ孫にあたる斉彬を可愛がり、
幼い斉彬に西洋のことについてたくさん話していました。このために斉彬も西洋に強い関心を寄せることになります。
重豪は西洋関連のモノにお金を使いまくり、さらには教育にも熱心だったので学校まで作りました。他には医療施設も作っています。
医療・教育にお金を使うことは藩主としては正しいことなのですが、
これらは藩財政にかなりの大ダメージとなりました。そしてとどめが西洋関連のモノへのお金の投入です。
これで薩摩はひどい財政難になり、孫の代の斉興と調所広郷という人が力を合わせてこの財政難をなんとか回復させることに成功します。
今までの過程を踏まえた上で、斉彬が藩主になったらどうなるでしょう。
「斉彬は重豪のように西洋関連にお金を使いまくり、また財政が大赤字に戻ってしまい、今までの改革がすべて水の泡になる」と斉興は考えていてもおかしくありません。
まさに祖父を自分の息子に重ね合わせて焦ったのでしょうね。
斉興は斉彬個人を嫌っていたのもそうなんですが、
おそらく祖父の重豪のことも嫌いだったでしょう。
なぜなら重豪がお金を使いまくったせいで、自分たちにすべてのしわ寄せがきていますからね。
結果的に斉彬が藩主になり、西洋化を進めていくのですが、思ったほど財政は悪い状況には進まずいい方向に向かっていました。
しかし、斉彬が斉興よりも先に亡くなってしまいます。
この後、斉興は斉彬が創設した集成館の事業を縮小するという行動にでました。
最後まで2人は仲良くなることができず親子のハッピーエンドは訪れないまま斉興も翌年亡くなってしまいます。
この記事を書いてて思ったことが、大名家はどうしても政治的な関係を無視することはできないので、親子間の関係も複雑だなと感じました。