見出し画像

【幕末】逃げの小五郎と呼ばれた桂小五郎の3つの要素

幕末の長州で有名な人物の一人に桂小五郎がいます。明治以降は木戸孝允の名でも知られ、大久保利通、西郷隆盛の3人合わせて維新の3傑と呼ばれている一人でもあります。

そんな桂小五郎は「逃げの小五郎」と呼ばれています。
逃げと聞くとあまり良くない印象を持ってしまいますね。

どうせなら剣の小五郎みたいなあだ名なら勇ましく強い感じが出て幕末の志士らしさがでます。

しかし、小五郎は弱くて臆病だから逃げたわけではなくある信念がありました。そして逃げ切れたからこそ明治の世を生き残れたのだと思います。

小五郎を説明するには3つの要素があると考えます。その3つの要素について話します。

信念を持っていた男

幕末の志士は剣や刀を持って斬り合うイメージがありますが、小五郎には逃げとついていることからも武術は全くできなかったのかと誤解されそうです。しかし実は全くの逆で、小五郎は剣の達人でした。

若いころから道場に入門して日々剣術の修行に明け暮れていた小五郎は後に免許皆伝となり、道場の塾頭をつとめるにまで成長します。

このことから小五郎の剣術の腕はかなりレベルの高いものだったのです。

しかし、小五郎は斬り合いをしませんでした。

それには小五郎が通っていた道場に関係があります。

小五郎が通っていた練兵館の流派は神道無念流でした。

神道無念流の教えはむやみやたらに剣を用いないことを理想としていました。

この教えに習って小五郎は敵に遭遇しても斬るのではなく、あえて逃げることを選びました。


とてつもない運の持ち主

1864年あの新選組を一役有名にした事件である池田屋事件が勃発します。

1863年に起きた八月十八日の政変で長州藩士を中心とした過激尊王攘夷派は京都から追放されてしまいます。

しかしそこであきらめない過激尊王攘夷派の志士は京都の池田屋にひそかに集まって今後のことについて話し合いをします。

そこへ新選組が池田屋に突入します。

新選組は会津藩お抱えの武力警察みたいなものであり、京都の治安が乱れる原因を作っている過激尊王攘夷派志士の取り締まりを行っていました。

池田屋事件では新選組が勝ち、元松下村塾生だった吉田稔や昔松陰と一緒に東北旅行をした宮部鼎蔵らがこの事件で命を落とします。

タイミングが悪ければ、小五郎もこの事件で命を失っていたかもしれません。なぜなら小五郎も池田屋に集まる予定だったからです。

しかし、小五郎は集合時間よりも早く着きすぎたために、いったん池田屋を離れます。その離れている間に池田屋事件が起きたのです。小五郎には運があったとしか言えないです。

さすがに池田屋で捕まったら小五郎も犠牲になっていたでしょう。


豊かな発想

小五郎はそれからも新選組などなど幕府側の人たちから目をつけられていました。小五郎はそんな幕府側の人たちの目をごまかすために変装します。

農民に変装したり汚い格好に変装したりと、とにかくばれないようことを第一に考えそのためにはプライドも捨てました。

しかし、そんな逃げの天才小五郎でも見つかってしまったことがありました。小五郎を見つけて捕らえたのは会津藩士です。

そして取り調べをうけることになる小五郎

もうここで終わりかと思いきや小五郎は会津藩士たちに「便所にいかせてくれ」と頼みました。

もちろん会津藩士も「あっ!こいつ逃げる気つもりだな」というのはわかっていたでしょう。

なので、トイレまで見張りの意味で付き添いで行くことになりました。

その途中小五郎はしゃかんで袴を脱ぐふりをします。そして監視の目が一瞬緩んだすきをみてなんと逃げ出してしまいます。

もうここで終わりかと思った小五郎はまたしても逃げることに成功します。

とっさの判断が小五郎自身の命を救いました。

終わりに

小五郎は何度も命の危険に会いましたが、そのたびに運や豊かな発想を駆使して幕末の世を駆け抜け生き残ります。

剣を使わずひたすら逃げたのは、最後まで道場の教えを守ったからなのです。なかなか最後まで教えを守り抜くことは大変なことだと思います。

多くの人は自分も含め途中で、もういいやとなってしまいがちです。

逃げることに特化した志士はほとんどいませんでした。

もし現代の世で小五郎が逃走中に出ていたとしたら、おそらく最後までハンターから逃げ切ることができるような気がします。



いいなと思ったら応援しよう!