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【いい人なんだけど……】石田三成が嫌われてしまった2つの理由
関ヶ原の戦いの西軍代表として
東軍代表の徳川家康と戦い、そして負けてしまった石田三成
そんな三成は結構嫌われていたという話があります。
(自分は三成結構好きです)
特に豊臣政権で軍務(戦い)に携わった武断派と呼ばれる人たちを中心に嫌わてれしまいました。
嫌われていたということは三成の性格がものすごく悪く、
そして意地悪だったからなのかと思われがちなのですが、全くそんなことはなく、善人でとても真面目な人でした。
こんなエピソードがあります。
秀吉の家臣たちで集まって、
順番に回しながら茶を飲む行事が開かれました。
そのとき大谷吉継が病気の症状で鼻水をたらしてしまい、それが茶の中に入ってしまいました。
吉継以降に茶を飲む人はみんな飲むふりだけはするといった形で、誰も飲みませんでした。
そんな中、三成ただ一人は嫌がるそぶりを見せずその茶をごくごくと飲み干しました。
これを見た吉継は感激して、
三成を以後慕うことになります。
他のエピソードとしては、
関ヶ原の戦いで、三成が敗れた後
東軍は、三成の居城であった佐和山城に入ります。
しかし、城内には金目のなるものがほとんどありませんでした。
これは三成が領民から取った税で贅沢せず、
質素に暮らしていたことがわかります。
これらのエピソードを聞いてると、三成を嫌う理由が見当たりません。
ではなぜ武断派を中心に三成は嫌われてしまったのでしょうか?
理由としては職業柄という面と、真面目過ぎる性格の2つが合わさったものと思われます。
職業柄としては
三成は戦いが得意ではありませんでしたが、
実務に優れていたので文官として豊臣政権内で出世し、
全国規模で行った太閤検地の実施など豊臣政権の新しい改革において主に活躍しました。
これは武断派としてはおそらく面白くなかったのではないでしょうか?
「なぜ戦が俺よりも下手くそなあいつがあんなにも出世しているのか!」
という思いだったと思います。
現代に例えると
「なぜあの人よりも自分の方がテストの点数がいいのに、通知表の成績はあの人の方が上になっているんだ!!!」というような感じです。
三成が豊臣政権内で
高い地位にまで昇ったことが嫌われてしまった理由の一つだと個人的には考えています。
もう一つの、真面目過ぎる性格が災いしたというのは
三成が律儀になんでもかんでも秀吉に報告してしまったことです。
秀吉の朝鮮出兵において武断派の人たちは朝鮮に派遣され実際に戦いました。
そこでは当然ミスも起きてしまうわけです。
このミスを三成は秀吉にすべて話していました。
これを知った武断派の人たちは怒りました。
おそらく武断派の人たちは、「チクリ魔の三成め!」とか
「実際に戦ってもいないやつにあーだこーだ文句言われたくないわ!」というふうに考えていたのだと思います。
三成の朝鮮出兵における仕事の一つとして現場の様子を報告するというものがあったので仕方ないことだったのですが、
真面目過ぎる三成はこのミスは言わないでおこうみたいな臨機応変な対応ができなかったのです。
もし三成が「今回は見逃してやるけど、次からは気をつけろよ~」みたいな性格であれば、ここまで嫌われることはなかったと思います。
真面目過ぎるというのが嫌われてしまった理由の2つ目だと思います。
三成は先ほどのエピソードからもわかる通り、いい人でした。
どちらかというと長く関わっていくうちに良い魅力に気付くタイプが三成なのではないでしょうか?
これから三成の再評価が進んでいけばいいなと思っています。