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【厳しすぎも緩すぎもダメ!】幕末における幕府の失敗話

黒船来航により幕府は衰退に向かったと一般的には言われています。

確かにそれも一理あるのですが、もっと決定的に幕府を衰退させた出来事がこの後起こりました。

主に2つの出来事に絞って話をしたいと思います。

2つの出来事のうち1つは幕府が厳しくしすぎたために起こった話、
もう一つは逆に緩くしすぎたため(対応が甘かった)に起こった話です。

この真逆とも言える対応についてそれぞれ話していこうと思います。


桜田門外の変による井伊直弼暗○事件


桜田門外の変は1860年に起きた井伊直弼暗○事件です。

井伊直弼大老という職に就いており、将軍に次ぐ権力を持っていました。

その大老が暗○されてしまったことで幕府の権威は大きく低下しました。

そもそもなぜ桜田門外の変が起きたのかというと、

直弼が諸大名から藩士まで多くの人を処罰した安政の大獄での恨みを買ったからです。

安政の大獄は時の天皇孝明天皇が、幕府が日米修好通商条約を天皇の許可なしで結んだことに腹を立て、
命令文を幕府と水戸藩へ送りました。(戊午の密勅

しかし、孝明天皇はこの命令書を幕府よりも先に水戸藩へと送ってしまったのです。

これじゃ幕府よりも水戸藩の方が上であることを世間に知らしめてしまうことになります。


このことに腹を立てた幕府の権力者である直弼は水戸藩の人物やその関係者を処罰し、さらには一橋派の人たちまで謹慎処分を下しました。


この処分の中には数多くの大名までも対象となっていたので相当厳しい処分だったことがわかります。


この権力による裁きを行使したことによって直弼は多くの人から恨まれ、水戸藩士と薩摩藩士によって襲撃され命を落とす桜田門外の変が起きます。


桜田門外の変は幕府の対応が厳しすぎたために起こった悲劇と言えるでしょう。


第一次長州征伐における幕府の緩すぎる処分

1860年代に入ると長州藩の過激さが目立ち、世の中がピリピリとした雰囲気になってきます。

そんな中、決定的な出来事が起こります。

1864年に起こった禁門の変で長州藩の人一部がなんと御所に発砲します。

これにより長州藩は朝敵となり、幕府はそんな長州を倒すために第一次長州征伐を行います。

この征伐は、軍を動員したのですが結局戦闘にはならず、話し合いでの幕府の勝ちが決まりました。

このとき幕府が長州藩に命令した条件は次の通りです。

・長州の三家老の切腹
・長州の四参謀の斬首

これしか幕府は条件を提示していません。

本来なら幕府にも朝廷にも逆らっている長州藩は改易(領地すべて没収)あるいは大減封処分は必須です。

実際西郷隆盛は重い処分を下そうと考えていました。

しかし、勝海舟は日本が混乱することを防ぐために重い処分を下すことに断固反対していました。


これは完全な自分の推測なのですが、


数年前の安政の大獄から桜田門外の変の一連の流れを見て、厳しすぎる処分を下すとどうなるかがすでに分かっていたから緩い処分にすることを提案したという面もある気がします。


しかし、この緩い処分は幕府から見たら完全に失敗でした。

その後も生き残った長州藩はまた力をつけ第二次長州征伐では幕府軍を破ることになります。


最後に

今回は幕府の厳しすぎる処分と緩すぎる処分について話しました。


今見た通り、第一次長州征伐ではおそらく厳しい処分を下したとしても、幕府にとっては結局不利な形になっただろうと思います。


じゃあ、安政の大獄の時に緩い処分にしとけばよかったのかといわれればそれはまた違う気がします。


緩い処分だったら諸大名たちになめられ幕府の衰退が逆に早くなっていた可能性もゼロではないからです。


今回この記事を書いてみて、どれぐらいの処分を下すのかというさじ加減は本当に難しいことだなと感じました。


この判断が命取りとなるので、当時の幕府の人たちも相当頭を悩ませたんだろうな~と思います。








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