【退屈と安心、生きる意義を考える】『暇と退屈の倫理学』を読んで(1)

私たちが一番求めているのは安心だと話した。(11月の投稿)
読んだことのある人は飛ばしてもらいたいが、編集した一部を書く。

今を生きる私たちが一番求めているのは、安心ではないか。

生き物が根本的に安心を求めているのは当たり前だ。生きたいはずだから。だけど食べ、寝て、生きることが大変なことは今も昔も変わらない。
お金、仕事。生活が変わるのと同じくして難しい理由は変わったけれど、難しいことに変わりはない。安定した生(活)を根本的に求める。

安心を願う思いは強くなった気がする。個人主義の影響か個人で立ち向かわなければいけない。昔は地域的なコミュニティの中で人が成長していたけど、今はコミュニティに入らないといけない。コミュニティ内も他人に干渉することが悪いような価値観があって内面的な関わりは少なくなった。表面的な繋がりの数々は心も身体も支えてくれない。

なのに、不安は大きくなった。SNSで色んな人、世界のことが知れる時代。未来の不安を知り、他国、日本の状態を知り、不安に思う。本当に苦しい人が声を届けられることはとてもいいと思うけど、不安も届けられる世界。

私たちは過去をみて、未来を考える。今生きることと向きあえてないのには今を犠牲にしていることがあると思う。私たちは道具を使って余裕のある生活を作り出しただろうか。受験、就職、老後のために頑張る。安定した未来を求めて多忙を極める人は少なくないのではないだろうか。

自由な社会と言われるが、自分で選ばきゃいけないということだし、社会にはレールが存在している。レール通りに進むことは難しくて、レールから落ちると生きることが難しくなる。外れて生きるなら、責任は自分にある。
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不安ばっかの生活だから、少しでも安心が欲しい。落ち着けるカフェ、不安を忘れられる熱狂的なこと(スポーツ、フェスとか)、推しに依存し、自分の世界で音楽を聴き、人形が売れる。宗教、youtube。

僕は自然が好き。木、空、花、川、、 家族が、先輩が、大切な人が好き。安心するからかもしれない。

不安が実現しなくてよかったっていう後ろ向きな安心ではなくて、今が幸せだなって安心を感じて生きたい。

私たちが求めているのは愛と思ってた。本当は愛で安心したいのかもしれない。愛して、愛されて、安心したい。人ではない人も。自然、ペットかも。安心したいことは共通していると思った。

僕のインスタより抜粋

しかし一つ、私たちは安心したらいいのか。

友だちがメッセージを送ってくれた。考えてくれて本当に嬉しかった。たくさん考えを伝えてくれたうちの一つに「絶対的な安心の中で生まれるちょっとした刺激と張り合いが生きがいにつながり、それがまた幸せにつながることもあるのかなって思います」とあった。納得する。刺激がほしい、私たちは安心したいけど刺激が必要だ。動物が刺激を欲していると感じないが、人は安心だけだと贅沢なことに物足りなさを感じる。

これはどうしてなのか考えた。僕は不足が減ったからとしか考えられなかった。「満たされたいが、満たされることが問題を生む」矛盾した仮説と、「動物は生きるのが生きることだから」という解決とは言えない結論で苦しんでいた。その時の僕は「生きていることが意味なのに、追加の意味を求めてしまう」とまで言っていた。

奇跡だ。この僕に友人が『暇と退屈の倫理学』を(読んでないのに)おすすめしてくれた。短くない本で、読みづらいかなと思ったけれど、最初の50pで大好きな本『傲慢と善良』のような衝撃を受ける。

退屈、だったんだ。
物足りなさ。思い出した。他人の議論をみていて「暇かよ」と思いながら「僕も(内容が大切なことだと思っているだけで、優しい言葉を贈ること、人の相談にのること、自分のしている活動自体も)暇かよって思われてるかな」と感じ、くだらないとか思っちゃいけないと自分へ言い聞かせていたこと。勝手な正義感を生きる意味にするな、だから戦争が起こるんだよと思ったこと。

「生きること」と強い結びつきをもつ言葉、それが退屈だった。なぜ気づかなかったんだろう、退屈、「傲慢」に気づかされた時の感覚だ。

退屈と生きることが強い結びつきをもつことを、筆者はわかりやすく説明した。

『近代は様々な価値観を相対化し、どの価値も根拠が弱く疑えた。生命ほど尊いものはないという、という原理しか提出できなかった。それはあまりに正しいが故に反論できない、人を奮い立たせない。自分はいてもいなくてもいいとしか思えない』

退屈と安心

退屈と安心の結びつきは強い。私たちは安心して退屈する気がする、安心が欲しいのに、逆を求めるのが退屈だと感じる。刺激のない状態を安心と定義したらそうだろう。もしかしたら私たちは安心しているかもしれない。いや不安だが、未来に対する不安が遥かに大きいのであって、今は安心しているのかもしれない。人それぞれだと思うが。大切な人がいて、衣食住に困っていない人は安心できる、安心を求めていると気づいた人は安心するための行動ができる。不安と退屈が瞬間的に共存することはないが、安心は生まれても消えることがあるため安心と退屈を求めることは矛盾しないし、安心していたら退屈する可能性がある。

僕はイヤホンをして音楽を聴く理由を「外の世界と遮断し、自分の世界で音楽を聴いて、不安を逃避し、安心するため」としていたが(同時に)「退屈を感じさせないため(安心しないためと似ている)」である人もいるはずだ。ノリノリな音楽を聴いていたとして、不安から逃げている人もいれば、退屈で刺激が欲しい人もいる。逆だが矛盾なく存在していて、生きたい願いと生きる喜び、生きる意義が欲しい願いに結びついているような気がする。

けれど、安心して生きることは刺激のないことだろうか。こうも考えられる。私たちが求めているのは刺激もあり、退屈もしない「本当の安心」である。生きる喜び、生きる意義を感じ、「生きたい」「生きていい」と(自分を認め)安心している状態が本当の安心であり、退屈しているのは生きる喜びと生きる意義を感じられていないからであると。私たちが一番求めているのは安心で、安心していないけれど物理的に不足がなくて安心している気がしてしまうから退屈する。退屈はしていても心安らかではないのだ、自分の生きる意義がなくて退屈する。労働も気晴らしも、生きる意義ではないと感じるから退屈するのである。生きる意義を感じている人の余暇は、休みであり、安心を感じる幸せの一部分である。

退屈するのは生きること、生きる意義を感じない(小さい)からである。生きることは、生きる意義。生きることが、退屈しない条件である。(これは最後まで読んだとき、理解されると思う。)

僕は筆者の挙げた「退屈しないため」(生きる意義)のはじめに「他人の存在」を加えたい。大切な人は生きる喜びを感じさせ、生きる意義を与えてくれる。共同体と大切な人は、幸せで、楽しくて、与えてくれてることを感じさせない程、生きることを物理的、精神的(安心と生きる意義)に支える。個人主義的になって身近な共同体の繋がりが減った。大切な人が減り、「自分はいなくてもいい存在かもしれない」と感じる思いが強まり、退屈を感じると考えられるのだ。

しかし大切な人がいれば退屈しないわけではない。まず、人のもつ愛する力をある程度満たす大切な人がいなければ退屈する。人の愛は無限大だ。愛せられるなら多くの人を愛したいし、人をもっと愛したい。大切な人が少なくて、愛する力が余っていた時、退屈する。愛は食と一緒で満たされる。自分の愛せる力を超えて愛せない、消費されない。腹七分目ならない心七分目のような状態で生きられたら退屈とは関係がないかもしれない。
社会との結びつきも必要だ、大切な人と生きる(架空の)世界に存在意義がほしい。私たちは世界の広さと、自分の小ささを知った。大切な人と2人(やそれ以上)で互いに大切にしていても、2人が1つの共同体やコミュニティにみえ、その共同体に意義が感じられなかったら、「私たち」が退屈する。そのため私や私たちが社会と結びつき、生きる意義を感じていなければならない。

地域コミュニティ
その意味で、地域コミュニティは大切だ。昔から人は大きな(血縁の有無にかかわらず)家族で動いたり、小さな社会を作っていたりしたはずだ。小さいけど小さすぎないコミュニティ、地域があることで私が世界と結びつきを感じていなくても、小さな社会に必要とされ、小さな社会が世界に認められていることで広い世界との結びつきが感じられる。
小さいけど小さすぎないコミュニティは地域だけじゃない。会社もあるはずだ。ただしここで留意すべきは生きる意義と結びついているか。地域は「ともに生きること」を前提としたコミュニティなので世界からほとんど絶対的な形で認められている。この世界というのも自分が思い描いている世界なのだが自分が自分でコミュニティに納得して生きている。会社の場合、会社の利益が目的で、会社に存在意義があるかは会社次第だ。そして、会社内の競争があったり、(生きることではなく)利益を求めることで自分は必要とされてない(自分より適した人がいる)と感じさせたりする。「私たち」と同じく社会と結びつき、存在意義を感じる会社であり、その会社から私の存在意義を感じることが会社で退屈しない(なぜ、こんなことをしているんだろうと思わない)条件である。

(会社と社会は似ている。「会社」をひっくり返すと「社会」になりますが、この2つの熟語は、何か関係があるのですか?|漢字文化資料館

つまり同じ(社会と結びつく)目的をもち、利益だけに固執せず一人ひとりを大切にできる会社であれば、地域コミュニティ(社会)のような小さいけど小さすぎない共同体になる可能性がある。
退屈しないための結論を一つ述べた。著者の挙げた退屈しないための結論が僕は3つあったと思う。退屈と生きる意義の関係をみながら考えたい。

(著者が一つ目の結論としたことは、筆者が3つ目の結論としたことと共通していると考えた)

楽しむこと

生きる喜びを感じているのだと考えた。本当の安心の話をした時、生きる喜び、生きる意義と書いた。生きる意義は生きる喜びを感じさせるが、生きる喜びも生きる意義を感じさせる。楽しむことは、生きる喜びが生きる意義を感じさせる。
後述するが僕は基本的に、生きる意義には他者が必要だと考える。一人の(環)世界に他者が入る。影響しあうから意義を感じる。ボールを投げても吸収される壁に囲まれているとする。誰も返してくれなければ、受け取ってもくれない。私はこの世界にいてもいなくても同じと考えるだろう。
しかし、それでもボールを投げ続ける人がいる。ボールを投げることが楽しい人だ。私にとってボールを投げることが楽しく、投げていることが生きる喜びなのだ。投げられなくなったり、投げることに疲れたら生きる意義を感じないかもしれないが、投げられている限り、投げていることが喜びであり楽しい。楽しいから生きる意義は生きることなのだ。この人にとって、死ぬことは生きる意義がなくなることだから、投げ続けたいはあるかもしれないが、できなかった、したかったはない。

私たちは楽しむことができていない、筆者の言葉に痛感した。生きる意義に順番や優劣はないけれど、私は楽しむことが少ないから、他者が関係する意義を強く感じるのだろう。自然や感覚が大好きなのに、楽しんでる時間が長くはない。まえがきのまえ、筆者の入りが強い伏線に感じる。

だからもろもろの物を利用してそれをできるかぎり楽しむことは賢者にふさわしい。味のよい食物および飲料をほどよくとること、さらにまた、芳香、緑なす植物の快い美、装飾、音楽、運動競技、演劇、他人を害することなしに各人の利用しうることで自らを元気づけることは賢者にふさわしいのである ――スピノザ『エチカ』

暇と退屈の倫理学 p10(少し編集した)

気晴らしの多い消費社会でも、楽しみはたしかに存在する。楽しみたい。楽しめる自分を育みたい。楽しみを味わうことのできる自分であるために、楽しむ訓練を体験しようと思う。「愛するということ」と同じで「楽しむということ」も楽しみを知るだけでなく、感じて、楽しむことができる自分へ変化するはずだ。

考えること

筆者は、人間は高い環世界移動能力をもち一つの環世界にひたっていることができないこと、考えることで環世界移動能力を低下させることができることを述べた。

『私たちは思考するのを避けたい(慣れたい)から、思考し続けることはとても難しいけれど、私たちは何かおかしいと感じるものを受け取り、思考し続けることができるかもしれない。』

筆者の文に涙が出そうだった。

考えることが退屈しない。結論は同じだが、自分なりの説明を加えたい。はじめに思うのは、考えることの奴隷にならないか。私たちは考えたくないはずなのに(筆者は人間が考えたくない生物であるとした)、考えるから退屈しないということは、労働の奴隷、消費社会の奴隷と何か違うだろうか。筆者も『考えることのきっかけをすべて受け取ろうと考えてはならない』と書いていた。「私はなにを考えているんだろう」「なぜ考えているだろう」と思う時、それは退屈していないといえるだろうか。退屈しない考えることと、退屈する考えることがあるはずだ。

僕は、考える必要性があるかの違いだと思う。考える必要性を感じなければ、考えない。それでも考えるのは、考える奴隷であって、退屈を意識しないための気晴らしだ。(必要以上という考えは労働にもあてはまる。生きるためだけの労働だった場合、必要以上に働くのは退屈しないため、労働の奴隷。必要でも退屈なのは労働に意義を、労働している自分自身に生きる意義を感じないから。)

私たちが考える必要性を感じるのは、生きること、ないしは生きる意義である。世界で生きるため、自然や芸術等を楽しみ生きる喜びを感じるから、生きる意義を感じたいから。考えることが退屈しないは条件があった。考える必要性のあることを考えている時は退屈しない、生きることに必死か(生きる意義を考えていることに)生きる意義を感じるから。

楽しむことと結びつきがあり、先述した筆者の1つ目の結論も考えることの一部だと思う。『暇と退屈の倫理学』を読んだことが退屈しない第一歩であるのは、生きる意義と結びつく退屈の問題を考えたからである。

なぜ生きる意義を考えるか なぜ退屈を自覚するか


筆者が結論に挙げたことを自分なりに考えた。自分なりの結論を述べるため、なぜ生きる意義を考えるか、退屈を自覚するかを考えたい。

僕ははじめに退屈する理由を生きる意義を強く感じていないから、生きる意義を考える必要性が生まれた理由を、人間の物理的な安心が増え余裕ができたこと、生きることが目的の共同体が減り精神的な安心(生きていることの承認、喜び)が少ないことと考えた。生きる意義を感じない人は自分で自分を認められていない。動物は生きることが生きる意義だった、他者や社会(共同体)から必要とされ、生きる意義を考えなくてよかった。けれど生きることが目的の(小さいけど小さすぎない)共同体が減ったことは(本当は必要なのに)他者や社会に必要とされていないと感じさせてしまっている。都市では生きることが目的の共同体が、町でも市でもなく、国、いや地球になってしまっている。大きすぎる共同体では自分の存在意義も、共同体との結びつきも小さく感じてしまう。地域や別の形の(生きることが目的で社会と結びつきのある)小さいけど小さすぎない共同体を増やし、生きる意義を考えなくていい環境を作りたい。

限りなく細い線かもしれないが、結びつく世界が広がったことは生きる意義を感じられる可能性が上がったとも考えられる。
地域コミュニティでも必要とされなかった人、自分に自分は必要だといえなかった人はいたはずだ。虐待、いじめ。誰も孤立することがないわけではない。でも私たちは社会の広さを知った。誰かを必要としていることを伝え、誰かに必要とされていることを知ることができる。繋げたり、支えたりできる場もある。問題は情報が届かないことだ。存在を知ってもらうための取り組みが必要だ。

「生きる意義を考えなくていい状態にする」とは別の結論も書きたい。なぜなら生きる意義を考えない状態にしようとすることが生きる意義を考えているからであり、私たちは今、生きる意義を考えているのだ。

その前にもっと根本を考えてみたい。私たちはなぜ生きる意義を考えることができるのだろうか、退屈だと自覚することができるのか。

自我、自分の世界があるからだ。人間だけがもつとはいえないが、私たちはいつからだろうか、自己認識ができる。何かに対する(シグナル的な)反応、心の動きも知ることができる。自分が今嬉しいことを自分が分かるのである。この内にある世界を「心の世界」とすれば、それは一つだ。確かに自己認識し、自分の世界を生きている。筆者は人間が高い環世界移動能力をもっていると述べる。同感だ。会社員の自分、自宅の自分、1か月後の自分、人間は環世界を移動している。ただ、自己認識している自我は「心の世界」をもち、自己認識する時、「心の世界」で生きる。人間は環世界を移動して生きているが、自分の世界をもっている。「心の世界」が退屈だと感じるから、退屈なのである。筆者の挙げたハイデッガーの「何もない、真っ白で、だだっ広い空間に、ぽつんと取り残される」は心の世界を、「退屈している状態であり続けることはむしろ困難で、なんとなく退屈だ、の声はふと聞こえるのであり、その声が耳元で大音量で流れている状態など考えられない」は心の世界が「なんとなく退屈だ」と声を発することを示している。私たちは自己認識し続けないし、自己認識は声を大にしない。環世界を受け取って生きていて、ふと自己認識する。

「心の世界」

なぜなら私たちは「心の世界」と世界(誰もみえないが感じている、生きたい主体から独立して存在する客観的空間)の繋がりで生きている。世界に生まれた一つの自我として生きている。世界と自我があって生きられている。だから「心の世界」が大きすぎても生きられない。生きる意義を一人、考え続け、食べ物を食べず、寝なければ、生きられない。世界と繋がり、世界から受け取ることで生きている。
そして「心の世界」が小さすぎても生きられない。自我があるから、生きていると感じる。受動的な状態(学校があるからいく、SNSでおすすめされたものをみる、課題が出されたから考える)やいろんな自分がいる状態(学校の自分、家の自分、友達と2人の時の自分)が続いたら、自我は小さくなる。退屈は「心の世界」の自我が小さくなっていることに対する危険信号なのだ。生きている意義を感じていないのが退屈、は少し誤りであった。生きている感覚を得られないのが退屈なのである。生きている実感、生きる喜び、生きる意義が全てなく、生きている感覚を得られていないのが退屈だ。

心の世界は生きること、「生きること、生きる喜び、生きる意義」を感じたい。幸せを求めるのは、幸せでないと生きたいと思えない、生きられないからで、生きていて生きる喜びや生きる意義を感じられていることが幸せだ。

SNSで知ったおいしいご飯の食べたことに満足し、消費することは意義を感じない。自分の気晴らしであり、あなたが食べたことを知る他人の気晴らしである。心が求めていることではなく、それがなくても生きていける。食べたことを消費するのはSNSや大衆の影響を受けた行動だ。ただ、行動の目的がなにと結び付いているかで変わる。食べたことを友人と話したいから食べていたら、生きる喜び、生きる意義と結びつき、退屈でなくなる。心の世界が生きるために必要か判断している。

自己中心主義じゃないかと悲しくなるだろうか。私は私だ。自分の生を中心に考えられている。ただ、自分にとって他者が根本的に必要だから私たちは他者を大切にできるのか。いや、違う気がする。私たちは誰かを大切にするとき「自分のためだよ」と心から言われていない。

私たちが誰かを大切にする理由


仲間だからだと私は考える。生物は繁殖したい。一人では生きられないこと、これはすてきなことだ。他者が仲間だから他者を大切にする。生きる意義に他者の存在を挙げられるのは、私たちが仲間だからなのである。共食いをする生物がいる。しかしそれは繁殖、成長のためである。栄養資源をえて、繁殖するため。人は増えすぎたか。(戦争の理由は一切容認できないが)生物学的には共食いすることがおかしくないかもしれない。しかし、「人間のために死んでください」と言われて死ねるだろうか。あくまで生物学的な話で、私は人間として生きたい。みんな、生きたいのであり、みんな、仲間なのである。だから「生きること」だけは近代の相対化された価値観も否定しない。限られた資源で生きることは簡単ではない。けれど自分が、人間が、生き(繁殖し)たいことも事実だが、私たちが仲間であることも事実だである。この問題に取り組む私たちは、仲間であることを自覚したうえで、ともに生きる術、自分の生きたいと人間の生きたいの調和を考えるべきである。

まとめよう。「心の世界」が小さすぎると退屈するのであった。「心の世界」は生きること、生きる喜びや生きる意義を感じて生きることを願う。生き生きと生きることとでもいえようか。人は食べ、寝て、動く。生きるためである。生きることと向きあっていたら退屈しない。生きることと向き合わなくてもいい余裕が生まれた私たちは、気晴らしも楽しみながら、生きること(楽しみ、考え、動くこと)と向きあい、生きることを大事にしたい。

行動すること


生きることの説明に動くことを追加した。急な「動くこと」に驚いたかもしれない。
楽しむこと、考えること。筆者の最後の結論は、「次なる課題」として書いていたが、私はこれが楽しむこと、考えることに続く筆者の結論だと思う。

世界には人間らしい生を生きることを許されていない人たちがたくさんいる。戦争、飢饉、貧困、災害――にもかかわらず、(慣れ、安心したいため、考えたくない)私たちは思考しないようにして生きている。
退屈は自分に関わる問いである。しかし退屈と向きあう生を生きていける人間は、おそらく、自分ではなく、他人を思考することができる。すなわち、どうすれば皆が暇になれるか、暇を許す社会が訪れるかだ。

暇と退屈の倫理学 p411 一部編集 ()は自分の言葉

退屈しないことを考えた。退屈しないことは、生きること、生きる意義だった。他人の存在(社会との結びつき)、楽しむこと、(生きる意義を)考えることが生きることであり、生きる意義だった。
最後は、行動すること。考えることも行動だが、考えるに加える形で行動すること、「他人(の存在)」が生きるため。他人が楽しむ形、他人が他人や社会と結びつく形は私たちが決めることじゃない、生きる意義にならない。一人ひとりは自由に生きたい。自由に生きること、生きる意義を選びたい。他人や社会との結びつき、楽しみを選び、自分なりに生きていけることが自由だ。けれど仲間である他人の「生きること」「生きる自由」が危ぶまれているのであれば、私たちは行動できる、この行動は生きる意義である。

広げること


行動することは広げることと言いかえたい。生きる仲間、愛を広げたい。他者、社会を広げたい。身の周り、のさらに周り、

生きたいと話す心は「何もない、真っ白で、だだっ広い空間に、ぽつんと取り残され」ているかもしれないが、私たちは心を通わせられる。全てではない。だけど「生きること」を共有できる。自分の「心の世界」に他人が入ってこれる、他人の「心の世界」へ自分が入っていける。「生きること」は「心の世界」と同義だ。行動することは「心の世界」「生きること」を広げる生きる意義である。

仕事


「生きること」を支えることが仕事だ。行動することであり、「生きること」、生きる意義だ。
生きること。衣、食、住。
楽しむこと。芸術、運動、自らを元気づけること。
考えること。本、哲学(学問は楽しむことでもある)、
広げること。教育、メディア、交通、

不足した「生きること」を供給する、仕事。生きることと楽しむことは想像しやすい。考えることは広げることと結びつきが強い。全員が生き、楽しみ、考えられている社会だったら広げることはなくなる。しかし全員が自由に生きられることはあるだろうか。戦争や貧困がなくなっても、私たちは完全な社会を作れない。子どもが生まれるからである。生まれてくる子は自由に生きることができない。子どもがいる限り、私たちは広げるのである。

子どもの存在はネガティブに捉えることじゃない。私たちはいつか死ぬ。生きることができる社会を保ち、難しい社会をできる社会へ変えていくのは次の世代である。子どもが生きられること、生きられる社会であることが必要だ。つまり子育ては最も身近な広げること、「生きること」なのである。

最後に


今、今日、この時間。生きる意義を強く感じ続けて生きることは難しい。退屈を全く感じない人はいないだろう。退屈は生きる意義との距離で決まる。生きる意義を身近に強く感じるから、考えるより考えて行動することが退屈を感じない。教育を考えるより教育することが生きる意義を強く感じる。現場の先生は退屈を感じづらいのではないかな。けれど、退屈することも重要だ。退屈できる余裕は生きることと向きあう可能性だ。
生きる意義は生きる目的ではない。ゴールではなく今。そしてゴールのないことだ。他人の存在、楽しみ、考え、広げること。ゴールのないことをし続けるのは疲れる、生きることに疲れることもある、気晴らしも必要だ。
本文が生きることか、気晴らしかはこれから分かることだが、とにかく安心して生きることができる社会を作っていきたい。

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