乃南アサさんの「それは秘密の」を読みました。
人の一生を全部語りつくすことなどできはしないので、小説の中ではある人のある時期の、ある場面の、心の動きを追っていくことになります。
もちろん、生涯を追った物語や、自伝などという類のものもありますが、それとて、生涯をくまなく語ることなど不可能であるはず・・・。
例えば自伝なら、その日その時に何を考え何を思ったか?などということは、自分ですら詳しく憶えているはずもなく、その何割かはのちの自分が客観的に自分を見たときの周辺事象から推測してその時の自分の振舞の記憶に重ねて、つじつまを合わせていることに他ならないと思いますから。
しかし、何か折に触れ、その時自分が思ったことを鮮明に思い出すことは、ままあります。不思議なのですが、それが子供の頃のことであれ、何十年も前のことであれ、今考えるのと同じようなリアリティで再現される・・・。
出来事にしろ、思い出にしろ、いったいどうやって思い起こされるのか?不思議でなりません。
そして、年々忘れっぽくなっていく今でも、何かの拍子に胸が熱くなったり、悲しさがこみ上げたり・・・。場合によっては、そのことが起ったその時よりもさらに、感情が揺さぶられたりするのはなぜなのか?
・・・まあ、考えても答えは出ないですが、僕の場合はやはり本を読むとき、好きな街歩きをするときにそういうことが多く起きます。
この著書の中の題材にされていることを、自分に照らし合わせるだけでも、そのような想いがあふれた場面に何度も出会い、「秘密」というか、敢えて他者に説明したり伝えたりすることのない「自分」を、どんな風に自分がとらえてるのか?ちょっと考えさせられたのでした。
例えば、他者に言葉に出して説明することがなくても、僕はきっと感情をだすことを我慢などしていない。
「言わないまま」「会わないまま」いた方が良いという大人の理屈をどうしても飲み込めず、自分を保つには人間関係を壊してしまう他に手段を知らない。何もかも顔に態度にだして伝える僕を、きっと相手が我慢していなしてくれていた・・・。これからもそれはかわらない・・・。
ただ、人に迷惑をかけたくないという気持ちは少しはもっているので、焦ってあがいて結果人から離れる・・・そういうことを繰り返して今に至るのだと思います。それらの場面すべてが、最悪の状況を迎えるわけではありません。
状況の変化や相手の行動や時間の流れによって最悪を逃れられることも多々ありますが、きっと僕は我を抑える術を死ぬまでみにつけられずにいるだろうと、ただし、歳とともに多少狡猾にその我を達成するアクションを身につけて、いつしか破滅とも我の成就ともしれない道をゆくだろうと、心の奥で確信めいた気持ちを持ち続けているのです。
それこそは秘密の・・・・ということになるのでしょうか・・・。