つれづれなるままに

 書くこともなく手持ち無沙汰なのにまかせて、一晩中、パソコンに向かって、心の中に浮かんでは消えていく他愛のないことを、とりとめもなく書きつけていると、不思議と、気が変になるのです。
 ま、とりあえずここで小話。
 本日の仕事帰り。毎週金曜日、鬼の現金派たる私は、駅前の郵便局に向かっていた。無論、金をおろす為である。大通りを渡る前に、神社の横を通るのだが、何を思ったか境内に入った。近道にはならないが、何となくである。すると、おそらくイントネーションから中華系と思われる女性が、幼稚園の年長さんくらいの子供を連れて、私に、
「ここの神社、トイレ、ありますか」と尋ねてきた。
 私は「ありません」と答える。
 そのまま二人は行こうとしたので、
「あっち側にローソン、ありますよ」そう助言すると、親子はローソンへ急いだ。私は大通りの反対側に用があるので、渡ると、ローソンへ向かう姿が目に入る。無事、あの子供は用をたせただろうか。
 それにしても、たまたま私が神社の境内を通らなかったら、間に合わなかったかもしれない。
 偶然の選択が親子を救ったかもしれない。
 事程左様に、ちょっとしたことで運命が変わる。
 そんなことを実感した金曜日の夕方でした。
 小話終了。
 さてと、なに書こうかね。
 ここで、ブックレビュー。
 先月「BOOKS青いカバ」で購入した、
 井上紅梅の『酒・阿片・麻雀』のレビューを添えよう。
 ちなみに外函付のそこそこ美品。
 そして1930年(昭和5年)に出版されたもの。
 井上紅梅(井上進・1881‐1949)は、魯迅の翻訳をした中国文学者として、また、麻雀を日本に初めて紹介した人物として知られている。
 戦後は「支那通」として忌避される存在となり、その著書も埋もれていた。
 この『酒・阿片・麻雀』は、1920年代中国で中国人女性と結婚した井上が、彼の周りの事を細やかに描写したもの。「紅梅」という号も妻の名前「碧梅」に呼応させ付けた名前。
 中国嫁というよりは、日本婿のような形だが、その生活が細かく
描かれている。タイトルに阿片、とある通り、阿片についてあらゆることが書かれ、当時の中国の様子を日本人の視点で知る事ができる一品。
 ほぼ百年前の本だが、フリガナがフラれているので通読に問題なし。
 随筆というより私小説の連作のような雰囲気、一つ一つのエピソードが短く、また、軽妙な語り口で非常に読みやすい。エピソードの終わりに解説が丁寧に付記されているので、勉強にもなる。
 こんな良書がなぜ、kindleでしか読めないのか。
 岩波書店あたりが出ていておかしくない。
 早急に出版してほしい。
 埋もれた秀作ですよ。これは。
 ちなみに値段は6,800円です。
 で、
 つれづれなるままに何、書きますかね。
「誰だぁ! そこにいるのは!」
 こねていたピッツァの生地を投げつける。
 ガチャーン。
 窓ガラスが破砕、粉砕、四散して。
「見てやがるもんだからよぉ。ま、嘘なんですけどね」
 電気グルーヴ『誰だ!(瀧 EDIT)』聴いてたら、暴走しちゃいました。
 お前誰だぁ!
 ということで、何、書きますかね。
(いや、あまりにもあんまりで、つれづれすぎるだろう)
(ええねん、こんなん適当で。タイトルに、「つれづれなるままに」てエクスキューズつけてんねんから)
(せやな)
(そやで)
 まずい。
 亀田製菓の『ソフトサラダ うま塩仕立て』喰いたくなってきた。
 喰っちゃおうか。
 罪を犯すんですね。
 食べないって。夜コンビニへ行かないって。健康に気をつけるって。
 言ったじゃないですか。
「いいじゃん。喰いたいんだから」
 真理だ。
 よし、最後にウンガレッティ全詩集から、ひとつ引用して終わろう。

  美しい夜

どこの歌声が湧き起こって
今夜は織りなしたのか
こだます心で
水晶の星空を

どこの祭りが湧き出たのか
婚礼の心から

久しくぼくは
暗闇の水たまりだった

いまは噛みしめている
乳房にすがりついた赤児みたいに
この空間を

いまは酔い痴れている
この宇宙に
                    1916年8月24日、デヴェターキ
 
 
 
  

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