週刊「我がヂレンマ」<5月6日号>
ゴールデンウイークも最終日。
せっかくの休みなので、早めに書き出した今週号。それなりに時間を要するので、やってしまえ。ということです。
昨日、5カ月ぶりの古着屋でした。
それでも全然平気。去年のようにほぼ毎月、セカンドストリートなどでディグって(掘り出し物探し)いたのが嘘のようです。今ある服たちは、6年かけて、買っては売り、場合によっては捨て、勝ち残ってきた選りすぐりです(処分する服はあるかも)。
なので、あえて無理してワードローブを増加させる必要がない。
故に、年内、また古着屋へ行くのはあと1回、多くて2回だろうと思う。
今は服よりも「書」が最優先。積読を猛烈に増やして、消化して、学びとしたいのです。
それはそうと、今週のコンテンツ。
<メモの考察と解説>
<購入した書籍の紹介>
<連休最終日>
noteをはじめて400日を越えたわけですが、モチベーションとクオリティーを向上させていく所存です。
前置きはこれくらいにして、イキマス。
<メモの考察と解説>
「寂寞感(せきばくかん)」
「寂寞」と「感」を合わせた言葉で、「寞」の字は「漠」「莫」と書かれる場合もあります。
意味は「ものさみしい感じ」、「ひっそりとした感じ」です。
例:
・人のいない、夕焼けに照らされた砂浜は、なんとも言えない寂寞感が漂っていた。
・太平洋側とは違う、どこか閉鎖的で寂寞感すら覚える日本海側の冬景色が、私は好きだ。
「冷笑と黙殺」
非常に孤立感、閉塞感、厭世的な様が想像される。どこか被害妄想が漂っていて、近づきがたい印象。自分の態度が、解釈が世界をつくっていることに気づいていない。「笑われて、無視されても、俺は」そう思い込むことで、反省も改善もなく、単独のエコーチャンバーのなかでぬくぬくと、煉獄に沈み込むだけ。
暗澹たる幼稚さ。自戒を込めて。
「アパッシュ」
は、19世紀末から20世紀初頭のパリにおいて、路地裏で強盗などの犯罪に手を染めていた若者の総称。現在では、日本語の「ならず者」や「チンピラ」に近い意味で使われる。
アパッシュの語源はアメリカ・インディアンのアパッチ族である。
アパッチ族がアメリカ合衆国とメキシコの国境付近で、馬車などを襲撃して物資の強奪を繰り返したことから、パリ市内でモンマルトルの路地裏を拠点に単独、あるいは徒党を組んで強盗を働いた若者が「アパッシュ」と呼ばれるようになった。
「アパッチ」という言葉は、アパッチ族からたびたび襲撃を受けていたインディアンのズニ族の言葉で「敵」という意味であり、このフランス語での用法はそう間違ったものではない。
「逗留(とうりゅう)」
・旅先などに一定期間とどまること。滞在。「湯治場に三カ月間――する」「長(なが)――」。
・その場にとどまって進まないこと。また、1か所でぐずぐずすること。「さばかりのことになりて――せさせ給はむやは」
・その場にとどまる時間。ひま。
「我が屋に帰り物具せん――なかりければ」
「働いてもいないのに、腹だけは猛烈に減っていた」
おそらく西村賢太氏の私小説の一節。出典作品は不明。
働かざる者食うべからずと、言っても、腹は減る。本能に突き動かされ、それが満たされないとなると、人は暴走する。我を忘れる。
他方、不安はあれど飢餓感がない、宙ぶらりんの状態では逆に行動することができない。人間は巧くできてるようで、面倒な、不器用な生き物だ。
物事が動かないときは、まず一歩、踏み込んだら断行のほかない。
「貧乏籤(びんぼうくじ)」
他と比べてひどく不利益なくじ。また、最も損な役回り。
「――を引く」
いや、「残り物には福がある」ともいう。人生、捉え方次第でなんとでもなる。また、「雨降って地固まる」ともいう。
ほら、なんとかなる気がしてきただろう。その勢いに乗って、実際に、なんとかしてしまおう。大体のことはやればできるのだ。
「変な遺影」
無論、「変な家」のモジりである。変も何も、自ら写真をセレクトしたわけで、ふざけているだけだ。だが、葬式の手前「その遺影、変ですよ」とは言えない。死人をスベらせる不謹慎さ。
実際には、変な遺影は存在しない。あるとすれば、コント番組ぐらいか。
そう考えると、「お笑い」に対して真面目さを要求する、行き過ぎたコンプライアンス意識は表現の自由を狭める。
「変な遺影」いいじゃないか。笑って送り出そう。良い葬送。
<購入した書籍の紹介>
「電話・睡眠・音楽」
川勝徳重
『東京の夜景を通し現代の時間の流れを切り取った表題作ほか、龍になろうと修行した男がウサギになって食われる「龍神抄」、赤塚不二夫の満州引き上げ体験を絵物語にした「赤塚藤雄の頃」、藤枝静男・梅崎春生の短編を漫画化した「妻の遺骨」「輪唱」など1+13編を収録。』
『電話・睡眠・音楽』によせて(一部抜粋)
ぼくがDJをするようになったのは、古い時代の音楽をより楽しく、より新鮮な解釈で聴きたいと考えたからであり、そして自分はしばしば、年若いDJや音楽家の方々から、いままで気付かずにいた古い音楽の素晴らしさを教わるのです。
いっぽう自分は漫画について語ることができるほどの知識を持ち合わせていませんが、本作品を読んだとき、どこかそんなDJカルチャーから受けるものと似ている、と感じたのだ。
乏しい自分の知識では、川勝さんの作品からいつもA、という漫画家の作風を連想していました。正直に書くなら、そのA、という漫画家を、自分はデビューから数年間の作品だけ読んでしっており、またけっして熱心なファンにはなれなかったのでした。
ところが川勝さんの作品を読むと、自分がA、という作家に対してつまらない、と考えていた部分でさえ、彼は大きな長所だと捉えていると知ることができる。つまり川勝さんの漫画を通じて、Aという作家に対する新しい魅力を見出すのです。これはいままで誰も見向きもしなかった音楽の良さをDJが発見する、そのこととよく似ています。
こじつけ、と思われるかも知れませんが、とにかく自分には彼が新しい批評眼を持った若い音楽家かDJのように感じられたのです。この場にふさわし言葉をようやく思い出しました。
ヌーヴェル・ヴァーグ。それです。
音楽家/DJ・小西康陽
「定本 レッド 1969‐1972 ①」
山本直樹
『青春と革命の最後を描いた漫画至上屈指の問題作、全4巻で新装復刊』
『なぜ彼らは行って、僕は行かなかったのか――押井守、絶賛‼』
「リーダーっていうのは一番はじめに死刑になる人だよね」
1969年1月18日、1000人近い学生たちがたてこもった東京大学構内に機動隊及び警官8500人あまりが突入。夕刻、安田講堂陥落。
逮捕者631名。1月18日’69年度東京大学入試の中止が決定した。このあたりをさかいに以降、日本の学生運動は徐々に下火へと向かいはじめる。
それとはあまり関係なく、同じ年の夏からこの物語は始まる――
※本作『定本 レッド 1969‐1972』は、講談社コミックス版『レッド』(全8巻)、『レッド 最後の60日 そしてあさま山荘へ』(全4巻)、『レッド あさま山荘の10日間』(全1巻)、以上計13巻の物語全編を収録のうえ、新装版として全4巻にて刊行するものです。
「定本 レッド 1969‐1972 ②」
山本直樹
「もはやあいつら革命家じゃないよ」
『理想と暴力の間で軋む現代の叙事詩、彷徨の第2巻』
『赤く燃え上がった時代の克明なリマインドとして、永劫読み継がれるべき傑作漫画――浅野いにお、瞠目‼』
「ずっと一緒に闘ってきたじゃないか」
決行された「処刑」。1971年8月、革命者連盟アジト。赤城たちは必死の説得を続けた。薬師は堰を切ったように早口でしゃべりはじめた。それは無理矢理自分で自分を納得させているようでもあった。
それでもなお銃による「殲滅戦」作戦のため、山中での共同軍事訓練を実施する彼ら。相次ぐ逮捕者、脱走者。若者たちは次第に消耗していく――。
「逃げたら殺すからな」
「定本 レッド 1969‐1972 ③」
山本直樹
「総括しろ!」
『同志的援助、総括、自己批判、敗北死・・・極限の第3巻』
『最後の冬が、修羅と化す』
「こんなのが総括になるか?」
「お前がコタツに入っている資格があるのか」
1971年12月、真冬を迎えた榛名ベース。日中は薪拾い・水汲み・洗濯。
夜は全体会議という毎日。一日はあっという間に過ぎていった。
赤色連盟内では薬師と黒部一郎の問題が議論の的となり、これまでの総括要求の限界を乗り越えるため、ついに暴力による「援助」が実行され、連鎖し始める――
「がんばれっ! がんばれっ!」
「定本 レッド 1969-1972 ④」
山本直樹
「新装全4巻、完結」
『この国の分岐点を捉えた金字塔的長編黙示録』
「わたしたちが、おばあさんやおじいさんになる頃、世界はどうなっているのかナ?」
「何の意味があったのか? 何の意味もなかったのか? 何が終わったのか? 何かが始まるのか?」
1972年が明けた。
激化する「総括」で死者が続出する赤色連盟では、それまで実行部隊のリーダー的存在だった安達にまで新たな矛先が向かう。
その一方、徐々に迫りくる警察の包囲網。逃亡する若者たちが最後に追い込まれた場所は、名を「あさま山荘」といった――
「やっと総括できたな」
「……うん」
買ってしまった。
『定本 レッド 1969-1972』新装版・全4巻。
前々から欲しかったが、全4巻で一万円近くするので、二の足を踏み、タイミングを見計らっていた。それが、今。だったのだ。
短篇集『明日また電話するよ』『世界最後の日々』を買って以来、欲しい、欲しいと購買欲が高まっていた(『夕方のおともだち』も買う予定)ので、ヴィレッジヴァンガードで発見し、いざ、購入。
『電話・睡眠・音楽』も同じく、前々から欲しかったもの。
つくづく買い物はタイミングである。
それは必然的に、訪れるものだ。これからもその「運命」を大事にする。
『キモい』
<連休最終日>
明日から、平日、日常がはじまる。
連休の最終日は半分、休みでなくなる。「もう、終わり」その寂寞感がほんの少しづつ、普段へと誘導していくのだ。日常の磁力だ。
最終日は、それはもうゆったりと過ごすほかない。無理に詰め込んではいけない。義務感からくるアクティビティなど、底抜けに虚無です。
世間のアクティブの人々は、Uターンラッシュで渋滞に巻き込まれているか、満席の新幹線、または、航空機かで日常への帰還の途にいるのだ。
いっぽう私は、旅行にいかない。
諸事情から20世紀以来、温泉に行っていないし、東京ディズニーランドは23年は訪れていない。その上、6年前に叔父が倒れて以来、母方の田舎に遊びに行く恒例行事もなくなった。
つまり、何処にも外泊してない、ということだ。
私は、旅行にいかない。
とはいえ、行けなくもない。貯金はそこそこあるので、金の問題ではない。ように見えて、貯金は生活防衛資金なので手をつけていけないのだ。
この辺の堅実さは、母の血によるもの。
一方で昨日、古着と書籍で計4万6千円弱は使った。
「どうしてもほしい」
「旅行に行かないのだから」
「ゴールデンウイークぐらい、いいじゃないか」
この「好き」に金を使ってしまう積極的散財癖は、父の血によるもの。
期せずして、自分の血筋について考えてしまった、ゴールデンウイーク最終日の昼下がり。備えつけの扇風機がまわっている。
午前中にゴミ出し、簡単な休日出勤(1時間弱)、早めにnoteを書き終えて、あとは、読書・ネットサーフィン・ゲーム・ネタ作りである。
それはもう有意義に、詰め込んで、充実させたい。が、まったりと過ごしていくのだろう。羽を伸ばす、というより、羽を休める。もう充分に休まっているが、のらりくらりとしてやろう。
取り留めのない文章になってきたが、取り留める気もないので、当たり前だ。まさに「浮遊気分」。どういうことか。分かりかねる。
日常を忘れる時間はもう終わり。
気張ってみたが、穏やかなしょんぼり遊弋感覚。
5,000字を超えたのでノルマは達成しましたが、もう少し蛇足を続けよう。『FIRE ONEDAY Black 直火仕上げ[無糖]』でカフェインを注入しながら。
あ、蛇足、なかった。空っぽだった。
ええい、もういいわ。明日以降のショートショートのネタをつくらないといけないしネ。
もう、その場の思いつき、こじつけ、でっち上げは終わりにしないとネ!