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オリオン座

9月1日。深夜0時。
この日から始まった新しい毎日には、ただ不安しかなかった。
希望とか夢だとか、そんなものは何もない。
一度走り始めれば、止まることはおそらく許されないだろう道だった。
そう思い込んで20年間走り続けて来た。
なぜこの道を選んだのか、なぜこれでいいと思えたのか、今となってはわからない。その時、そう決めたのだ。それしかないとさえ思っていた。
妥協でもない。野心でもない。計画でもない。
そんな出発にも関わらず、これまで走って来られたのは、そこに与えられた道があったからだろう。
結局、レールの上でしか歩けないのだ。

後悔はない。と言えば嘘になる。ありとあらゆるものが後悔だった。満足したことなど一度もない。
ゴールは常に次へのスタートとなり、結果は常に次への原因とされた。この止め処もない繰り返しに慣れすぎて無意味に思うこともなかった。
振り返れば、後悔の山が連なって見える。
差し詰め後悔という名の登山家だ。あらゆる後悔という名の山々を登り続けてきた。
登ればいつかは頂上に到着し、降りればいつかは麓に降り立つ。そこから見上げればまたレールが敷かれ、また登るだけ。そこには何の希望もない。野心も、目的も計画も、ましてや夢なんて。
スクロールゲームのように画面は右から左に流れ、上から下へも流れてゆく。立ち止まればゲームオーバー。おそらくこのゲームから、このレールから降りれば自分の人生は終わると思う。この道に差し掛かるまでの道のりも、行き当たりばったりの後悔の山脈だった。結局、敷かれたレールの上でしか生きては行けない。おそらくこれからも。情けなくて、虚しくて、時々、爆発しそうなほどに破壊衝動が胸を突き上げて、自分を押し潰そうとしてくる。いっそその衝動に従って消え去りたいと思うこともしばしばあった。

今年も9月1日がまもなく訪れる。
あの日、あの朝。明け方四時頃。
まだ夏の終わりと言っても暑い夜だった。
顔中の汗をTシャツの袖で拭いた。
路地の先には建物がなく、その先の山並みが見えた。黒く縁取られた稜線の向こうは空だ。
大阪市内と言っても、明け方前ともなると流石に暗い。仄かに街の明るさを反射しているようにも見える空には星たちがたくさん見えた。
星座に詳しいわけではないが、オリオン座くらいはすぐわかる。
稜線から右上を睨みながら昇り来るオリオンの姿が見えた。まだ夏だというのに。
その時わたしはこの景色を見て、
『毎年、これを見るんだな。』
『何年、これを見られるんだろう?』
と、足を止めて空を眺めてた。
毎年不安な気持ちのまま、この日を迎える。
3年前から業務内容の変更に伴い、この景色は見ていない。が、今もまだ誰かが敷いたレールの上を走っている。
今年、とうとうレールの先が見えなくなって来たように思う。もうその先はないんじゃないかと思う。『もう、その先ぐなくてもいいか』と思うと、目の前が滲んで何も見えなくなる。

オリオンが昇り、南の空を航り、西の空に沈むその経路にはレールなんてものはない。
なのに、それは正確で、狂うことなく、一定としてずれることも休むこともなく、運行する。
自分の人生もこうであればいいと思うのだが。
また、9月1日がやって来る。
希望も、野心も、計画もない、夢とも呼べない、不安しかない見えないレールの上を、また、走り出す。
後悔という名の停車駅を過ぎては忘れ、忘れては過ぎていく。
環状線のようにぐるぐると、始発と終点の往復ばかり繰り返す単線列車のように、走るだけの人生。
行き先表示は空白。
せめて、この列車の名前だけでもオリオン号と名付けてほしい。名付けたところで行き先が決まる訳でも、確かなレールが敷かれる訳でも、満足や充実がある訳でもないのに。

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