O先生の教え

 鬼のOオー先生と怖れられていた教師がいた。東京世田谷の小学校、私の4年のときの担任だった。いまで言う「パワハラ」教師だったわけではない。大きな声を出したり、体罰をするわけでもないのに何故「鬼」とあだ名されていたのか。

 他の小学校教員に比べて厳しかったのである。何がって「しつけ」の類だったり、ノートの書き方だったり、時間に関してだったり。

 休み時間に生徒と一緒にドッヂボールを楽しむようなことはなかったし、いまはどこに売っているのだろうと思われる三角黒縁メガネが威圧的で、そのうえジャージ姿ではなく、スカートにジャケットというかっちりした服装でいつも教壇に立っていた。板書の字は書道段持ちの腕前でバランスも良かった。口癖は「け・じ・め」だった。男子たちがふざけて授業が中断してしまうと、しばらくは静観しているものの、ここぞというタイミングでその一言が発せられる。途端に教室は水を打ったように静まり返った。

 きっと自分にも厳しい人だったのだろうと大人になったいまなら思える。
 小学生の私から見ると親の世代と同じで40代くらいかと思っていたが、もしかしたら30代半ばか、後半ぐらいだったのかもしれない。自分がとうにその年齢を越して感じることだが、とてもとても彼女のような風格はいまもって持てないでいる。

 O先生は生徒たちから親しみやすいタイプの教師ではなかったが、私だけではなくクラスの誰からも信頼を得ていた。それは鬼の角がなくなり恵比須顔を見せることもあったからということもあるだろうが、それよりも「えこひいきをしない」教師だったからだ。これは大きい。
 担任教師を絶対視する低学年や権力に対する反発心を持つ高学年とは微妙に異なり、信頼と不信を行ったりきたりする4年生のこの嗅覚は大人が思う以上に効いている。

 一方、いま大切とされる「褒める」教師でもなかった。私自身が褒められた記憶がないだけではなく、読書の冊数やランニングの周数など当時のことだから壁に貼りだされていたとは思うが、ことさら最優秀者を前に出して発表するようなことはしなかった。

 しかし一貫して生徒一人ひとりを見てくれていたのは確かだ。

 当時まだ「いじめ」なる言葉はなかったが当然40数名の生徒がひとつの教室に集えば日々問題はぼっ発し喧嘩も起きる。だが私の記憶のなかに誰かが理不尽に一方的に叱られたり、周りが連帯責任をとらされたりしたということはない。叱るときも「け・じ・め」を持って長引かせず、さっと切り上げていたのだろうと振り返る。

 一人ひとりを見てくれたなかの私自身のエピソードを一つあげてみよう。

 両親共働きの我が家。母は飲み屋(スナック)をやっていて明け方3時、4時ごろまで働いていたので朝は起きられず、菓子パンなどを食べて行くこともあったが朝食をとらずに学校へ行くこともたびたびあった。
 ある日、朝礼の最中に私はお腹がすきすぎて倒れてしまった。倒れたといっても、がくん、とその場にうっつぷしてしまったわけではない。
 あの全校朝礼というやつ。当時は生徒数も多かったので千数百人の児童生徒が校庭に縦横の列を乱さず並ばされ、前へ倣え、直れ、休め、のかけ声とともに軍隊式に動かされ、校長や教頭の頭に残らない話に耳を傾けなければならない、あの状況は異様だ。しかしそこは頭が痛かろうがお腹がすこうが我慢して隊列に加わらねばならないという「絶対」の空間だった。

 倒れたあと保健室へ連れて行かれたかは定かではない。行ったところで熱もなければ風邪の症状があるわけでもないのだからして、「静粛」な全校朝礼を何とする!と怒られたとて仕方ない。でも、そうした記憶はない。
 はっきり覚えているのは、私は畳敷きの用務員室で早めの給食を食べたことだ。もっというなら、そのあとの給食の時間にも食べたので、その日私は2回給食を食べることになった。
 「朝ごはん食べてないの?」とO先生から聞かれたわけではない。聞かれたとしても恥ずかしくて「はい」とは答えなかったろう。朝ごはんも食べられないビンボーな子として見られたくないというよりは、朝食を準備しないダメな母親と母のことを悪く思われたくない気持ちが大きく働く。この辺り9歳児の考えることであっても人間の内心は複雑だ。
 ごはんを食べながらみるみる元気をとり戻す私に、一緒にこたつに入ってみかんやお菓子をくれた用務員のおばさんたちの顔も優しい思い出として残っている。
 
 そのO先生があるとき放ったひとことが40数年経ったいまでも真理であることは先日の兵庫県知事選でも明らかだった。

 授業中のこと、それが救急車だかなんだったかはうろ覚えだが、とにかくサイレンの音が遠くに鳴り響き、なんだなんだー!と言って、クラスの大半がわっと一斉に席を立ち窓側に詰めかけた。
 O先生は静かに叱責した。
 授業中にむやみに席を立ってはいけません。ということではなかったのでとくにその「お小言」が記憶に深く刻まれたのであろう。はっきり言って当時の私が(クラスメイトも同様に)どれほどその意味することを理解していたかは怪しい。いや、誰ひとりとしてわかっていなかったに違いない。

 O先生は言った。
 「野次馬根性は一番卑劣な行為です」

 私は席を立たなくて良かったと思った。本当は少しだけ、窓の外を見たい気持ちはあった。
 子どもの思う「好奇心」というやつをそうばっさり否定するのも大人げないと思うだろうか? 私にとっては忘れがたい一喝だった。

 兵庫県知事選立候補者で「NHKから国民を守る党」党首の立花孝志が選挙中に百条委員長の奥谷謙一県議の自宅兼事務所前で、彼が言うところの「街頭演説」という誹謗中傷、脅迫を拡声器を使い垂れ流ししたというあるまじきニュースに辟易したが、もっと恐ろしさを感じたのは、その後に現れた野次馬たちの存在だ。
 扇動するのは確信犯だが、その波に我こそも乗らなくては損とばかりに野次馬根性に火がつく様は、かつての関東大震災での朝鮮人虐殺やナチス時代のユダヤ人狩りを彷彿させる。彼らは扇動者にのせられた被害者では決してない。
 
 あとに続く者がいなければ扇動者は孤立する。力を持てなくなる。
 はだかの王様を見抜く目は純真無垢な少年(少女)にだけ備わっているものなのだろうか。
 だとするならば大人どもよ、永遠に引っ込んでおいておくれ。
 これ以上の醜態を町中でインターネット上でさらさないでおくれ。

 かつての小4の私が叫んでいる。

「やじ馬は一番ヒレツなんだよー!」
 
 








 
 

 


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