おーっと100本過ぎていた💦
もうすぐ、もうすぐだ。
だから何ってわけじゃないけど、なんだか嬉しい。
年内に達成するだろうか。
または、はじめてから1年になる年明けの1月末までには書き上げられるか。
とりあえず週一出すというのはクリアして、連続48週になる。
12月に入ってからは、カウントダウンをはじめていた。
はい、noteの記事が100本になるまでを。です。
そしていざ、土曜日の朝、今日がその100本めの記事にあたる(はず)と思い、自分の記事という所をクリックする。下書きも含めての合計数が出る。確認する。99本だな、と。
しかし、あれれ?
下書き数を減らした合計数を確認する。「いやそんなはずがない」と何度も数え直す。引き算だけではなく、スクロールして上からも下からも、つまり書き始めから最近のものまでと、逆に最近のものから書き始めまでを、1、2、3、4、5と口で唱え、1本ずつ数えたりもした。
が、答えは同じだった。もう100本は達成していた。
前回のが100本目の記事だったのだ。
そうか、そうだったのか。
気合いを入れて100本記念の文章を書くつもりで意気込んでいたのに、なんというお笑い草。とほほのほ。
もとい、仕切り直して、「100本目」ではなく「100本を越えて」の感慨を記すことにしよう。
ひとは見かけによらない、という点でいえば私は荒井良二作の絵本『はっぴいさん』に出てくるせっかちな女の子の要素が多分に強く、友人知人からもそう見られているが、反面、のんびりな男の子の部分も持ち合わせている。のんびりというより、ゆっくり……というか遅々として進まないことが多々あり、それによって自分をイライラさせてしまう。そのときはせっかちさんに早変わり。とはいえイライラのスピードをあげるだけなので疲労感は半端ないけれど、結局何も終わっていない、というドツボにはまって落ち込む。もっともこれは行動自体がゆっくりだということではなく、迷ってばかりの決められない性格が次の一手に行くまでに時間を要するということだから、パターン化した思考を変える方法はあるとみた。
しかし、自分で自分を制し自分を変えることが一気にできるわけではない。わけがない、私の場合。
そこにははた目から見てのんびりさんだけれど、その実、ちゃっちゃっとスピーディにこなすことも可能な娘、ムーの存在が欠かせない。
そうなのです。彼女がいなかったら、こんな風に「100本を越える」文章をnoteに載せることもなかったでしょう。
ひとは見かけによらない。これは外面と内面の違いだけではなく、ひとは変わるということにもつながるだろう。趣味嗜好や人生への価値観が年齢と共に変遷することにも現れる。若いころの新しもの好き、流行に敏感な私を知っている学生時代の友人は、「個性」的なファッションを渇望してやまなかった人間がおさがり服を着回し、スマートフォンはおろか携帯電話も持たないいまの私を想像できただろうか。
インターネットが世に普及し出したころ、筆まめな私にアメリカの友人が不思議そうに言った。「なんでe-mail addressを持たないの? 世界中に友だちがいるんだからもう持っていると思っていたよ」
思えばそのころが分岐点だったようだ。
私の書くことや話すことをおもしろがってくれる人たちは、ブログやユーチューブで「世界」とつながることをすすめた。
それについてはのんびりさんが顔を出す。気が進まない理由をいくつも並べ、これまで腰があがらなかった。
インターネットと付き合いがないわけではない。普通に情報検索はするし、スマートフォンは持っていなくてもパソコンはある。SNSも他人がアップしている情報を利用し、教わることも多い。それでも自ら発信することはほぼなかった。
なのになぜ?
一冊の本を編集したことで火が付いた。文章を書くこと、練ること、他者と共有することの、苦しさを越えた後の奥深さを再び味わった。
若いころ、職業としてのライターをちらりと志したとき、のんびりさん、この場合は文字通り、じっくり、ゆっくりさんの私が顔を出すことを知り、こりゃー割に合わないと挫折した。文章を書くときの私はせっかちさんから離脱する。いまはもう直接キーボードで打つことが通常になっているが、原稿用紙に鉛筆書きというのをまったくしないわけではない。また、キーボードで打つときもワードのページレイアウトを原稿用紙設定にし縦書きで文字を打つ。句読点の位置、接続語、平仮名か漢字か、ということでも立ち止まり時間があっという間に過ぎていく。
そんな”こだわり”の強い私がぐずぐずしている間に、普段は「ゆっくり、じっくり、しっかり」派のムーが、さっさとアカウントを作ってくれた。そして第一回目のヘッダーのイラストを描いてもくれた。
それが11ヶ月前のこと。
エッセイを中心に、詩(のようなもの)や映像・オーディオのシナリオ、映画の感想や短編小説(のようなもの)を雑多に載せてきた。ヘッダーはほぼ空白だし、他のSNSとリンクさせたり、他の人のフォローをしたりして、相互作用で読んでもらう、目にとめてもらう機会を増やすこともせず、noteを活用する方法というお知らせがきてもそれに準ずることもしない。ただただ書き連ねてきただけだ。
それが100回を越えた。
ムーのおかげで「はじめられた」ことは確かだが、いまだに「やめていない」のには訳がある。
読者がいるということがこれほどまでに書き続けるモチベーションをあげてくれるとは知らなかった。数多あるnoteの記事からたどり着いてもらえたこと、「スキ」かどうかは別にして、頭のなかに寝かせたままではつながれなかった人たちとつながれたことに感謝する。
思索は個別なものながら、他者の存在によって引き出されることを改めて実感した。
冒頭に書いたように、だからどうした?と言われればそれまでだし、100本達成に賞金がついてくるわけでも誰かが祝ってくれるわけでもないけれど、なんだか嬉しいことに変わりはない。
1本1本の執筆が至福の時間であった。