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【自己紹介】〜猪突猛進39年の物語〜

先日大きな節目を迎えて
再スタートを切るために
これまでの人生を振り返ることにしました。

どんな目的で
なぜ学校をつくろうと思ったのか

そしてこれから
どう生きていくのか。

少し長いですが、お時間があるときにお付き合い頂けたら嬉しいです🌸


〜私の現在地〜

天使の夫(40)、元気の塊の長男(10)、癒しの塊の次男(7)との4人暮らし。
好きなことは、写真を撮ること、野菜作り、読書、文章を書くこと。
興味があることは、「教育」と「丁寧な暮らし」です。

梅酵素シロップづくり

「ザ・おてんば娘の子ども時代」

 子ども時代は、地域の子たちを集めては秘密基地づくりをしたり、クラスの男の子に飛び蹴りして先生に怒られたりと元気いっぱいの女の子でした。
 三姉妹の長女として生まれたのに、全然しっかり者でも何でもなく、6年生の時は忘れ物がクラスでずば抜けて多くて、三者面談で先生も親も苦笑い。トトロの世界に憧れる、ちょっぴり不思議ちゃんな子どもでした。

「松岡修造並みの熱血な中高生時代」

 小学四年生から習っていたバドミントンを中学でも高校でもみっちりしました。運動は好きだけど、走るのは苦手。でも、きつい練習や体罰にもめげずに食らいつき、部活と恋愛中心の青春を駆け抜けました。中学の時は勉強もまあまあ得意。受験の時は、親も先生も反対する高学歴の高校を「絶対諦めない!」と言って受験し、見事合格。憧れの高校で青春しました。

「教育に目覚めた大学時代&夫との出逢い」

 高校で全く勉強しなかったため、一浪して大学に入学。入学してすぐに夫と出逢い、お互いに一目惚れして1週間後にお付き合いスタート。それから結婚まで6年間(遠距離恋愛も3年あった)お手紙や交換日記で絆を深めました。

 当時何となく教育学部に入った私でしたが、2年の時に教育学科に入ったことで、教育の面白さ、奥深さに目覚め、どんどん学びを深めました。自主サークルを作って読書会を開催したり、フィールドワークに出かけたり。とにかく「これが本当の学びなんだ!!」と、受験勉強にはない学びの楽しさに気づきます。

 大学4年生の時、道徳の研究室に入った私は、「障害者就労支援施設B型」に毎日のように通い、そこに通う親子や職員の話を聞きながら138ページの卒業論文を書きました。「人間が豊かに生きることとは」を自分なりに深める貴重な経験になりました。

「私の教育観に影響した大きな事件」

 大学2年生の時、二つの大きな事件が起きました。一つは、妹の不登校でした。当時高校生だった6つ下の妹が突然高校を飛び出し、一時行方不明になったのです。妹は私と違い、おとなしくて友達も少ない子でした。中学の時もいじめられ、ようやく入学できた高校で人が怖くなり、衝動的に飛び出したそうです。幸いその日のうちに妹は見つかりましたが、自分の家族の在り方や姉としての自分の在り方、そして学校教育のあり方を見つめ直すきっかけになりました。

 もう一つの大きな事件は、大好きな従兄弟のお兄ちゃんの自死でした。一つ上のお兄ちゃんはいつも私たちに優しくて、かっこよくて、大好きな人でした。24歳でした。お金のトラブルだったと聞いています。でも、お葬式には友達がたくさん来ていて、可愛い彼女さんも来ていて、お兄ちゃんがみんなに愛されていたことがわかるお葬式でした。
「どうしていつも優しい人が犠牲になるんだろう……」
 私は言いようのない悔しさと悲しさでいっぱいになり、帰りの車で一人わんわん声をあげて泣きました。
「みんなが幸せに生きる社会になるためにはどうしたらいいんだろう……」
私の中に大きな大きな命題が生まれた瞬間でした。


「絶望した中学校勤務」

 大学で仲間と共に大いに学び、いよいよ初めての教師デビュー!希望に満ちた私に、ベテランの先生が言いました。
「生徒は犬だと思って躾けろ。舐められたら終わりだぞ」
 とてもショックでした。ヤクザみたいな先生がたくさんいるその学校は体罰は当たり前。厳しい校則で生徒が締め上げられ、みんな能面のような顔で廊下を歩いていました。「学校不信」「大人不信」の生徒たちを見て危機感を持った私は、「中学校より前の小学校で何とかしなきゃ!!」と小学校の先生になることを決意しました。

「固定した人間関係と違いすぎる教育観」

 遠距離恋愛をしていた夫と結婚し、私は隣の県の小学校の先生になりました。海の町の小さな学校。きっと子どもたちはのびのびしているんだろうなと思いながら勤務しました。しかし、そこでは新たな問題に直面します。地域の子どもの人数が少なく、1クラスしかない学校では幼稚園の頃から人間関係がほぼ変わらない。強者と弱者の関係が固定され、いじめや思い込みなどが根強くありました。それをほぐすのに半年かかり、ようやくみんなが手を繋いで頑張れる集団になったと思ったら、次の学年になって他の先生が受け持つことに。するとそこでは、私とは全く教育観の異なる先生が受け持つことになり、子どもたちもまた最初から仕切り直すことになる……。そのような光景を何年も何度も見るうちに、
「同じような教育観で、もっと長い期間子どもたちと関わることはできないのだろうか……」
そんな思いを持つようになりました。

「4年間の育児休暇と人生の転期」

 教員採用試験にも合格し、いよいよ!という時に第一子妊娠。後ろ髪を引かれる想いで産後育児休暇に入りました。どうせなら、一気に産もう!と続けて第二子も妊娠・出産。そのタイミングで今住んでいる田舎町へと夫の転勤が決まり、春に家族四人で引越しました。2人の幼い男の子育児にヘロヘロだった私はどんどん体重が落ち、何だか体調も優れない日々。でも持ち前の松岡修造魂で何とか乗り切っていました。
 その矢先、夏に高熱で倒れ、救急車で運ばれることとなりました。病名は急性のバセドウ病。そのまま1週間入院を余儀なくされ、生後8ヶ月だった次男は断乳となりました。病室で母乳を搾り、捨てながら涙がボロボロ出ました。もっと飲ませてあげたかったという気持ちでいっぱいでした。

 退院してから、しばらく経った頃、大好きな友人から「学校つくってくれない?」と頼まれ、ひっくり返るほど驚きました。「学校ってつくれるの?」今からもう8年前のことです。       
それから私は何かに火がついたように、全国の民間の学校を調べまくり、我が子を預けて半年かけて5校の学校を一人で見学してまわりました。見学しては、「学習会」と称して色んな人に声をかけてレポートを発表するなど、大学生の時に戻ったかのようでした。
「私も理想の学校をゼロから作りたい!!」
 そんな気持ちでいっぱいになりました。とはいえ、小学校の先生にも未練はたっぷり。夫が生き生きとしている私を見かねて「育休変わるから、働いたら?」と声をかけてくれ、私は夫と育休を交代して、晴れて教育現場に復帰することになりました。

「2回出した退職届と新しい学校設立」

 全国で理想の教育を目の当たりにした私は、一年目、何とかその教育を公立の学校現場でできないかと試みました。しかし、その度に公立の学校でできることとできないことの間で苦しんでいました。12月には、退職を決めて退職届を提出していました。しかし、私の一年間の取り組みが評価され、「生きる力を育む部会」で全国の先生たちが集まる場で2月に発表することになったのです。そこで出会った先生たちは、この厳しい現場の中で何とか子どもたちが楽しく過ごせるように、生きる力を育めるようにと頑張っている先生たちでした。とてもかっこよかったです。私は退職届を撤回し、また現場で頑張ることにしました。
 しかし、二年目、やはり理想とのギャップに苦しみます。組織の中で抗い続けるということが自分自身の負担になっていることを感じました。公立の学校の中で頑張るか、外で頑張るか。その二択が迫ったとき、「外でどれくらいできるか試してみたい!」というワクワクをとることにしました。

 退職してすぐに、「学校をつくりたい!」と活動を始めたばかりの若いカップルと運命的に出会い、3人で学校作りに奔走しました。半年かけて場所を探し、酒蔵を一年半かけてゼロから改修し、そこは立派な校舎へと生まれかわりました。子どもたちもどんどん増え、元気になって卒業していく子もいてとても幸せな日々でした。

「四年半の猪突猛進を経て、新たな道へ」

 ゼロから3人で創り上げた学校は、遠方から移住してでも通う家族が出てくるほど、素敵な学校になりました。ここで一生働いていくと信じて疑わなかった私は、四年間、脇目も振らずひたすらに仲間と共に働いてきました。ようやく学校が形になってきたと感じた矢先、自分の身体と心がついていけなくなっていることに気づきました。責任感と使命感。やりがい。何とか自分を保ってきた色んなものが抱えきれなくなっていました。

 みんなにお願いして今年の4月から休職を頂き、ぽっかり空いた半年間に自分自身と向き合い続けました。
 そこで出た答えは、「自分のペースで自分の好きなことをしたいようにする」というものでした。
 これからは、誰に合わせることなく、自分のペース、自分の感覚だけを大事に子どもたちと関わっていきたい。そんな究極のわがままを言って、私は今、たった一人になりました。

「まとめ」

 ここまで一気に書いてきて、ほんとに猪突猛進な人生だな〜と思います。思ったら、行動せずにはいられない。でも、自分のこだわりは絶対に守りたい。だからよくぶつかるし、悩むし、方向転換もいっぱいしてきたんだな。今、色んなことを経験してきて、な〜んにも無くなってしまった。
 これからどうなるんだろう。さっぱり読めません。笑
 先日、「学校の先生に戻らないか?」という有難いお誘いも受けたけど、「まだまだ何かやれるんじゃないか」という気持ちが捨てきれないのです。

「みんなが幸せに生きる社会になるためにはどうしたらいいんだろう……」

 大学の時に抱いたこの疑問の答えを私はまだまだこれからも探究し続けたい。そのために自分が何ができるのか。
 自分で自分を幸せにしながら、その延長線上にみんなが幸せに生きる社会をつくっていきたいと思います。

 こんな長いnoteを読んでくださった皆さん、本当にありがとうございました。こんな私ですが、これからもどうぞよろしくお願いします🌸


大好きな人に挟まれて幸せ絶頂の私(現在の待ち受け)




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