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優しさとは、厳しさである。

久々に、中学校の卒業アルバムを開いてみる。
ページとページがひっついてめくりづらい。

最後の方のページに、友達からのメッセージがいくつも書かれていた。  
卒業式の日、教室でお互いにメッセージを書き合った記憶が、おぼろげに思い起こされる。
あの日以来会っていない人達の名前と、やけにあたたかなメッセージが、そこには連なっていた。

「とても優しくてすてきな人」

多くの友達が書いてくれたその文字列を、数年ぶりに眺めながら考える。
 

優しい人とは、どんな人だろうか。
 
 

少なくとも、わたしは、自分のことを優しい人だと思えない。
なぜなら、わたしは、他人に厳しい言葉をかけることができないからだ。 
なぜなら、わたしは、自分の言葉に責任を持ち、相手に本音をぶつけることができないからだ。


そんな人は、ただ他人に厳しいだけだろうと思うかもしれない。

わたしはその厳しさこそが、優しさなのだと思う。その人のことを本当に思いやっているからこそ、厳しく接することができる。
普通は言いにくい指摘や、心からのアドバイスをかけてあげられる。
自分の言葉にある種の責任を持っている現れだ。


一方、他人の人生に無責任な人だけが他人に優しくできる。
相手に対する発言に責任感が弱いからこそ、他人に「優しい」言葉をかけられる。
目の前の人が欲しがっているであろう甘言を。
相手が下す重大な選択を、適当に肯定するための美辞を。


当時のわたしは、他人に優しくしていたのだろう。
しかし、あれは優しさではなく責任の放棄である。
あれは、他人の未来を見殺しにする行為だったと気づいた。

人に厳しく接することにも、エネルギーが必要だ。そして、嫌われる勇気が必要だ。
そのエネルギーを他人に使ってあげられることが、優しさなのだと思う。

だから、わたしは冷たい人間だ。
あの頃の皆は元気にしているだろうか。


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