記憶の向こうの貴方
俺の観察日記。今日は香水の話をしよう。
ヒトが一番初めに忘れるのは声で、最後まで覚えているのは匂いだと言う。
確かに、もう過去の人となった誰かの、顔はぼんやりと思い出せても声は思い出せない、そんなことがあるかもしれない。
匂いの記憶は長いらしいが、それでも不思議なものだ。
視覚と違って匂いを頭の中で思い浮かべるのは結構難しい。少なくとも俺は、誰かの纏っていた香りを説明してくださいと言われても困る。
でも逆の行為にはきっと馴染みがあるのではないか。
街中でふっと匂いをキャッチして、あ、○○さんの香り、と思い出す、あれ。あの一瞬。
葉山葵々というヒトは香水が好きだ。すぐ匂いに酔うくせに、好きだ。多分、そうやってふっと、誰かのことを思い出すのが好きなのだ。そして葉山葵々自身、きっと誰かの頭の奥にこびりつくような、しつこく記憶にまとわりつくヒトになりたいのだ。
とにかく、葉山葵々は香水が好きだ。
でも。好きだからといって、香水を上手に纏うオシャレさんかと言われれば、それは違う。残念ながら。
葉山葵々はチキンなので、雑貨屋さんで手に入るようなプチプラフレグランスにしか手が届かない。トップノートがとか、ミドルノートがとか、そんな繊細で複雑でオシャンな「香水」というものに、手を伸ばす勇気はない。
憧れだけは募るけれど。結局パフュームショップやデパコスコーナーの前は、指をくわえて通り過ぎるのが常なのである。
昨日もそうだ。
映画を見たあと、香水ショップの前を通りかかるけど。目を奪われるだけでそのまま行き過ぎる。
と思ったのに。
一緒に出掛けた友人様は言い出した。
「入る?」
見られちまったのだ。さすが親愛なる友人様だ。ショップに注がれる葵々の熱い視線を、彼女は見逃さなかった。
「あ、うん」
曖昧に答えて。プチプラ人間、香水デビューなるか!?
もちろんと言うのかなんなのか、最初に向かったのは女性向けコーナーだった。気になる香りを、シトラス系やムスク系を試した。
でもさ。なんか違うんだよなぁ。
紙に染みこんだ香りを何度嗅いで比べても、どこか鼻につくというか。馴染みが悪いというか。葵々っぽくない。
八種類目くらいで、葵々は撃沈した。
せっかく見えない壁を越えたのに、やっぱり葵々はプチプラの住人なのだ。
そう思った。
もう帰るか。本気でそう言いかけた。
そのとき。友人様は言った。
「ねぇ、これは?」
突き出された紙切れを受け取る。
うーん。多分悪くない。
「あー、これにしようかな」
半ばやけくそだ。
やっぱ買わないのは癪だし。なんか半額キャンペーンしてるし。
もうこれにしよ。
ろくに説明も見ないで、なんならブランドもちゃんと知らないまま、葵々はそれを買った。
もし失敗だったら、それは友人様のせいだ。そういうことにしとこう。
最低だね笑
そんなこんなで。とうとう手に入れた一本。
最初の一本がこれで良いのかって?適当に選ばれた香水の気持ちになってよって?
それはよくわからないけど。
お家について。
青い箱を開ける。
ショップのヒトにもらった、ブランド紹介みたいな紙を開く。
手の中にある青い瓶と同じ写真を見つける。
これだ。このW/Mのラベルがついてるやつ。
意味はわからないけど。
よくわからないまま。今朝。葵々はそれを足首に吹きかけた。
噴きだした霧は、爽やかな香り。
紙切れを嗅いだときよりも、スッと通る、スピード感のある香り。これがトップノートってやつか。
それからしばらくして。ふとしゃがんだその時。
葵々は思った。
あ。彼氏の匂い。
匂いの記憶ってやつだ。
香りから遡って、一瞬で蘇る……
え……
あなた誰???!
一応言っておこう。
葉山葵々に彼氏がいたことはない。
マジで。
よし。
ちゃんと瓶を見よう。ヤバい成分が入っているのかもしれない。……
うん。取り敢えずW/Mがユニセックスって意味だってことはわかった。
で?
爽やかでありながら、深く温かく、甘すぎず、でも蕩けるような優しい香り。
ねぇ! あなたは一体誰なんだ!?
女性向けコーナーの多分一番端っこに置いてあったユニセックスの君は誰なんだ?
葵々はどうも君を知っている気がするし。
でも知らないんだよなぁ。絶対知らない。
え?怖いよ。ちょっとホラーだよ。
でも。悪くないよ。
さすがと言うのか。
親愛なるご友人様よ。
このミステリアスな最初の一本を選んだ君を、
葵々は一生愛するよ。
本当に。あなた誰なんです?
それはな。
俺だぜ! ハニー!
て嘘です、ごめんなさい。
俺にもわかりません。
……
あ。
てことは葵々さん。
あなた、その香水で誰かの忘れられない記憶になる覚悟はおあり?
つまりはこういうことですよね。
幻想の彼氏の威を借る葵々。
2022/03/19
俺の観察日記。