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三月十一日の記録

今回は、十一年前、横浜住みの私がどんな午後を過ごしたか、思い出しながら綴りたいと思う。

はじめる前に。苦しくなる方はブラウザバックしてください。そんな記憶がある人も、ない人も。災害も戦争も、もっと辛い人がいたのだから見て知っておかないといけないなんて、私は思いがちなのですが、無理を押して見る必要はないのです。忘れていない。それだけで十分だと私は思います。


さて。少し汚い話、私がこれから書く内容はきっと ”ドラマチック” でも、”世紀の壮絶な体験” でもない。いわゆる、記事のネタとしてはとても弱い。

津波にも遭っていない。家も壊れていない。避難もしていない。あの日を、そうやって平穏無事に過ごした小娘のところになんて、記者たちは集まっては来ない。

でも、私はよく覚えている。三つ下の妹はほとんど覚えていない。そんな三月十一日。小学校三年生だった私が過ごしたあの午後を、私はここに書いてみようと思う。


きっと放課後の掃除が終わった頃だった。

その日はちょうど学年が変わる頃で、一から四年生は早めに下校する日。
明かりが消えて、ロッカーの荷物もほとんどなくなった空っぽの教室で、私とマヤはたった二人、お喋りをしていた。

なんとなく帰るのが惜しい。小学生にはそんな日がある。

私は教卓に貼り付いている一枚の金ぴかシールに目を留めた。薄暗い中でも、鈍く存在感を放つシールを私は爪で剥がす。

「もらっちゃおうか?」

私がウシシと笑うとマヤもニヤニヤと笑った。

通称「金ぴかシール」。クラスに何らかの貢献が認められると先生からもらえるご褒美シールだ。連絡ノートに貼り付けたりして、みんなこぞってコレクションしたそれ。そんな金ぴかシールが台紙を離れて一枚寂しく教卓に貼り付いているではないか。

私は金ぴかシールを剥がし、手の中で弄びながらマヤと教室を出た。

「本当にもらっちゃうの?」

昇降口に向かって、階段を下りながらマヤが訊く。

「うーん。でも別にいらないかも」

シールごときで喜ぶなんて、子どもだよね。

私はピンっとクチャクチャになったシールを指先で飛ばし、階段に投棄した。

「やだ。バチが当たるんじゃない?」

マヤは私の顔を覗き込む。

「当たるかもね」

昇降口に着いた私たちは二人でくすくす笑いながら靴を履く。

靴を履いた私は校庭を見た。体育の授業をしていたはずの六年生が校庭の真ん中に集まって座っている。なんだろう。

私たちが昇降口から顔を出すと遠くで先生が手を振り、こちらに来いと合図する。

マヤと一緒に駆けてって、集団に合流して座るとはじめて気づく。揺れている。

階段を小躍りしながらチンタラ降りていた私たちは全く感じていなかったのだ。

先生の傍で座っていると、一足早くお迎えに来ていたマヤのお母さんがこちらに来る。

突然、放送で副校長先生の声が響いた。

「ただいま地震が来ております。こちらの震度は五程であると思われます」

すると、まるでそれに合わせたかのように揺れが大きくなった。ぐわんぐわんと揺れているのは、しゃがんでいる自分のせいなのか。地震のせいなのか。下に目を落とすと校庭に細かいヒビが見えて、指でこすると消える。

六年生が何人か泣き出す。

地震のはずなのに、サイレンは鳴らなかった。

また副校長先生が言う。

「えーただいま情報が入りました。震源は宮城と思われます」

それを聞いたマヤは、「宮城!?」と悲鳴を上げる。

マヤのお父さんは単身赴任で宮城にいる。
泣き出すマヤと慰めるマヤのお母さん。

そこでやっと、私は少し怖いと思った。


ひとまず揺れが収まったということで、生徒達はぞくぞくと親に連れられて帰宅をはじめる。私もお母さんの顔を見ると急に安心して、やっぱりなんでもないんだと呑気に考えた。

家に入ると物が幾つか落ちている。お父さんとお母さんが気に入っていたワイングラスは食器棚の中で倒れて割れていた。

お母さんがテレビをつけたので一緒になって見る。

でもよくわからなかった。

レポーターの人が必死になって何か言っていて、お母さんは凄いことになってるねと言っていて、私にとってはちょっとした非日常。

ぼさっとテレビを見ながら、何か凄いことが起きたことだけは理解した。

何時間かして、お母さんが夕食の支度に取り掛かりながら言う。

「お父さん、電車が止まっちゃったから歩いて帰ってくるって」

会社から家までどのくらいかかるのだろう。
なんとなく。早く帰ってきて欲しいなと思った。

お母さんがご飯の支度をする音。お父さんは帰ってこない。
テレビからは街が破壊される音。お父さんは帰ってこない。
夕飯ができあがって、食べなさいと言われるけれど。
お父さんは帰ってこない。

お茶碗を持ったまま、食べようとしない私にお母さんは目玉焼きを乗せてくれた。私はお醤油を掛けた。
お父さんは帰ってこない。

胸が詰まって。食べようと思っても私は湯気の立つそれを見るばかり。

私は、お茶碗を片手にお箸を握ったまま、泣き出した。

家の中は平穏だ。
屋根があって、温かくて、お母さんが作ったご飯もあるし、
妹は泣いている私を見てキョトンとしたままパクパクとご飯を食べている。

でも、外の世界は違った。
家の外。テレビの外。
東北の様子に混じって、首都圏の映像も流れる。
ビルの看板が落ちてきて、頭を抱えながら逃げているおじさんが映る。

未曾有の何かが起きている不安。
お父さんが帰ってこない不安。

私の外側にあるものもみんな不安で包まれていた。

私は十年ほどの人生で、はじめて不安に呑まれた。

結局、お父さんは五時間ほどかけて、歩いて帰ってきた。

それでやっと私はご飯を食べはじめることができたけど。
その味と、それから寝るまでのことは、もう思い出せない。


たまたまあの日、横浜のあの家に住んでいた私は、
たまたま今、二十歳を生きている。

そんな ”たまたま" をここに書いていると
亡くした彼のことがふっと頭をよぎる。

去年の九月。私は大学の友人を亡くした。
彼にとってみれば、友人と呼ぶほど近い関係ではなかったかもしれない。

それでも、学友として。
コロナ禍でも、名前と顔が一致する数少ないうちの一人として。
私は彼との未来があると信じていた。
でも彼は事故で命を落とした。

次に会うときは、ちょっとからかってやろうなんて思っていた、
"次" はなかった。


"たまたま" に生かされている私は、同時に "たまたま" に裏切られる。

人はその "たまたま" のために祈り。明日を願う。

"たまたま" の世界の私たちは
今日も生きている。

"たまたま"の世界の私たちは
いつか触れた誰かの温もりを、今もずっと覚えている。

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