レヴィナス「ヒトラー主義哲学に関する若干の省察」ノート 1/3
最近、デュエマを本格的にやりたいなと思ったりします。中学くらいまでは盛んにやっていたのですが、それ以降ほとんど触れてなかったので復帰ということになります。このまえ構築済みデッキを買って友人とデュエルしたんですが、ゲームの性質そのものが変わってる感じがしました。僕の中学生の時はエピソード2環境で、「ミラミス覇」みたいなバカ強いデッキは出始めていましたが、それでも自分の手札やマナをうまく増やすか管理して、適当に相手を妨害して10マナ貯めるみたいなデッキが主流だったと思います。しかし、「鬼羅star.」とは「零龍」とか回してみると、マナも手札も管理はそこそこに、相手への干渉も的確に最小限にとどめて序盤から勝ちを見据えて半ば強引に(見えるような仕方で)ゲームを作る感じですね。僕が使った構築済みデッキはかなり完成度が高く、環境メタも意識されているのでそういう印象を受けるのかもしれませんが、ともかく、リソース調達カードの少なさには驚きました。flat工房の動画で昔のデュエマは互いのリソースぶつけ合って勝負するゲーム、今のは相手の妨害をかいくぐって先に回し切ったほうが勝ちのゲームと言われていましたが、まさにその感じですね。自分の最終的にやりたいことに直結するカードだけでデッキが組めるようになっていて、手札とかマナを単純に伸ばす汎用リソースカードが相対的に価値を落としたように思いました。とはいえ、やっぱり昔ながらの動きをしたので頑張って5cコンでも作ろうと思います。
さて、今回はエマニュエル・レヴィナスが1934年に『エスプリ』誌に発表した論文、「ヒトラー主義哲学に関する若干の省察」を邦訳で読んで、その内容を本文の順番通りに確認していくというものになります。訳は合田正人氏のもの(同氏の編訳『レヴィナス・コレクション』ちくま学芸文庫, 1999年)を使用します。今回は第一節を扱います。
この論文の問題意識は、ヒトラーないしナチスの主張がなぜ多くの人を魅了する力を持っているのかを解明することです。ナチスは1932年夏の選挙で第一党になり、1933年には全権委任法が制定されており、ユダヤ人迫害を公言する勢力が民主的手続きによって比肩なき権力を握るということがすでに起こっています。この事態をどのように解釈するのかということはユダヤ系の家庭に育ったレヴィナスにとっては喫緊のものだったと思われます。しかし、この論考は単にナチスの主張の論理矛盾を指摘したり、道徳説を持ち出すことによってそれを非難するというものではありません。いわば、ナチスの主張が明らかにした人間の在り方に注目し、それゆえある程度「ヒトラー主義哲学」と軌を一にしつつ、ナチスの野蛮から遠ざかっていくためにはどうすればいいのかと考えることの必要性を我々に見せているのです。
論自体は原文で10ページと非常に短いものですが、人間の自由をめぐる哲学史の形をとっています。そしてその中で人間の本質をどのように考えるのかということが問題になり、レヴィナスの「身体」に関する思想が表明されています。僕としてはまさにこの身体論に注目したいと思います。それでは早速見ていきましょう。
序論
これがこの論文の問題意識と必要性を述べています。「ヒトラーの哲学」は確かに論理的に矛盾を指摘することはできるのだけど、それ以上に「始原の潜在力」を消費し、「基礎的な諸感情」を覚醒させるものであるというのです。ここで「始原の潜在力」がなんなのかということが不明瞭ですが、この先の文脈からしておそらく人間が身体を持つ存在として持っている力、普段ははっきりと正体のわからない力ということになりそうです。
「基礎的な諸感情」は「現実の総体に直面し、自分固有の運命を目の当たりにした時に、魂が最初に取る態度を表して」おり、「一個の哲学を隠し持っている」(同前)と言われます。つまり特に危機的な状況にあってどのようにその状況に対応するのかを決定するのが基礎的な諸感情というわけです。ある意味ではそれはその人の本質ということができるかもしれません。危機において本性が見えるとも言いますし、そのような場面では自己をどう処するのかという問題と真剣にむきあわなくてはいけないからです。つまりヒトラー主義哲学は人間の本質にアクセスできるというのです。
このように、ヒトラー主義哲学は人間本性に関わってくるものであり、「一個の文明の諸原理を問いただすもの」なのです。なぜ「文明の諸原理」に関わるのでしょう。ドイツはキリスト教の文化圏にあり、人種に関わりなく信仰によって救済がもたらされるという考え(「普遍救済説」)が多かれ少なかれ文明の根底にあるはずです。しかしレヴィナスはナチスの「特殊救済説」を普遍救済説に対立するものとして批判することは、認識的にも実践的にも十分な営みではないとします。認識的に、というのは、二つの救済説の対立を生み出す「論理的矛盾の意味」は、双方の潮流を可能にした「源泉、始原的な直観と決定」に遡ることで明らかになるからです。ここまで遡らないと現状認識として不足しているということでしょう。実践的に、というのは、「ヒトラーの哲学」による基礎感情の覚醒によって、キリスト教を支えている感情的基盤そのものがすでに揺らいでいるためです。つまりキリスト教は批判の原理として十分に機能していないのです。
第一節
ではここから、本格的な記述に入っていきましょう。目標はヒトラー主義哲学がアクセスしている本質と、自由主義の思想がアクセスしている本質とを見極めることです。そして、どちらの本質にアクセスすることがより効果的なのかを判定することになります。「自由主義の思想」と言いましたが、ここでレヴィナスはヒトラー主義哲学と原理的に対立する思想をこのように総括していると思われます。ヒトラー主義対自由主義という対立軸は当時から一般的だったことが示唆されていますし、これから見ていくようにレヴィナスはヒトラー主義哲学の画期的な洞察として身体への繋縛を指摘するために、採用されていると思われます。
その上で、ここからは自由を主題にした思想史が展開されます。人間をどのような面で、その程度自由な存在と見るのかということがこの思想史を描く原理になっています。そしてこの思想史は大きく四段階、すなわちユダヤ教およびキリスト教、近代の自由主義、マルクス主義、ヒトラー主義哲学です。この第Ⅰ節では最初の二つが扱われます。
レヴィナスの言う「自由」とは何か
まず、「自由」の意味合いが取り上げられます。
ここで論じられる自由とは、「政治的な意味」のものではないということが最初に断られます。つまり、権利の平等や機会の平等という意味での自由が問題になっているのではないということです(もちろんそれらの自由も重要な問題であることは否定しようがありませんが)。そうではなく、この世界の中で環境から独立して行為する自由がテーマです。「人間に行動を促す世界ならびにその諸可能性を前にした人間の絶対的自由」はまさに独立した主体としての自由です。環境は人間をかなり決定づけますが、そのような環境の影響から自由に自己形成することができる、つまり「永遠に自己を刷新しつづける」のです。そして、このような自由を持った人間は「歴史をもたない」ということができます。
歴史を持たない?唐突とも思えるこの思考は次のようにサポートされます。
何かが過去になされたということはある人のありように多かれ少なかれ影響を与えますが、その過去になされたことは取り返しがつきません。私が20世紀の終わりにこの列島の茨城県と呼ばれる場所で生まれたことは私の生き方にさまざまなかたちで影響する「条件」ですが、その事実を変更することはできません。たとえそのあと私の意志で那覇に住んだりモスクワに住んだりして、そこでの文化の洗練を受け、私の特徴をさまざまに変化させたとしても、出生の事実を変更することは絶対に不可能なのです。
しかし、自由であるという、ヨーロッパに伝統的な人間のあり方を突き詰めるなら、このような過去に縛られることからも自由である、過去すらも変更可能なものであるということになります。
「運命の頂点」とは、先ほどの例でいうと、私の出生の瞬間ということになるでしょう。私の在り方の条件が生まれるまさにその瞬間に立ち返ってその出来事を変更し、別の条件を自分に課すことができる。真の自由とはそのようなものではなくてはならず、この自由は時間の流れからも自由でなくてはなりません。したがって、自由を体現する人間は変更不可能な過去の堆積としての「歴史をもたない」ということになります。
ここまでで「自由」がどんなものであるのかが確認されました。ここでの自由とは原則として、ある人の行為や在り方の自由であり、自分に課せられた条件を変更する自由です。そこから導かれる帰結として、現在の自分の条件となっている過去の出来事を変更する自由が要請され、「歴史をもたない」ことが自由の内容として必要になります。この最後の自由を便宜的に「歴史的自由」と呼ぶことにしましょう。
ユダヤ教・キリスト教における歴史的自由
レヴィナスは歴史的自由をユダヤ教とキリスト教に見出します。
まさに逆説的な主張です。ユダヤ教の悔恨においては過去の罪を取り消し不可能なのものとして悔いるのですが、それが赦しにまで繋がった時に、罪そのもの、つまり過去の過ちそのものが変容ないし消去されることになると言っているのですから。そしてこれと同じことがキリスト教に関しても言われます。
このことから「どの瞬間にも人間は、天地創造の最初の日々の裸の姿を取り戻すことができる」(p.95)のです。これも歴史的自由に関して述べた部分と言って良いでしょう。
そしてここからレヴィナスは、この歴史的自由の主体として超越的な霊魂の存在を指摘します。
ここで注目したいのは、「具体的な実在」と「超越」の対比です。歴史的自由のような「無限の自由」を有する主体としてキリスト教においては超越的な霊魂が想定されるわけですが、そのような霊魂を持っているとされる人間は(超越しておらず)内在的な具体的な存在としてこの世界にいるのです。この具体的な存在の方は霊魂と対比される肉体と考えてよいでしょう。
引用した部分の段落ののちの部分も含めてまとめるとこうなるでしょう。キリスト教的な人間把握において、人間は肉体と霊魂を持っている。肉体の方はその人の住む環境の共時的通時的影響を受けるが、霊魂はその肉体とは独立に存在しており、その霊魂によって人間は等しく真の自由、歴史的自由を有するのである、と。
近代における自由
続いてレヴィナスは、近代の自由主義における人間把握に話を移します。
「解放の劇的な容貌」とは、ユダヤ教・キリスト教の考えを指しているでしょう。人間が歴史的自由を有すること、そのために過去を変容させることすらできる悔恨や超越的な霊魂が人間にあること、この点が「劇的」と言われるのです。そして近代(=過去数世紀)の自由主義は直接的にはそのような宗教的なモチーフを必ずしも採用するのではないけれども、「理性の至高の自由」を主張することによって、ユダヤ、キリスト教の主張と同様のことを述べているというのです。カントの実践理性批判なんかはまさにそのような主張でしょう。結局のところ、人間を形成する環境や歴史から独立して思考し行為することができるために、魂を持ち出すか理性を持ち出すかの違いしかないのです。
さて、ここまでが第一節の内容でした。本当は論文全体を一気にやろうと思ったんですが、疲れたので一旦ここでストップしたいと思います。とにかく、今回の範囲ではユダヤ教、キリスト教、近代自由主義を参照しつつ、歴史的自由が長年にわたって想定されてきたことが指摘されました。その中で、歴史的自由を保証するものとして霊魂、あるいは理性が想定されていたことも重要です。次回以降では第二、三節を参照してこの自由に異議を唱える思想が取り上げられます。それではまた。