「マシな人」という概念―うちの小学校の恋バナ事情

うちの小さな小さな小学校では当たり前のように受け入れられていたけれど、もしかしたら全国共通ではないのかもしれない「マシな人」の概念。

簡単に言うと、「好きな人」の下位互換のようなもの。
恋愛感情を持つほどではないけど、まあこの人がクラスの人の中だったらマシかな~、みたいな。
今考えると、「お前ら『マシな人』とか言えるほど偉いんか?」ってチョップしたくなるところだけど、そんな文化が芽生えるのも分かる気がする。


まず、まだまだ小学生のひよこちゃんだから、恋愛をするのが恥ずかしい年ごろでもあるし、実際恋の味を知らない子もたくさんいたのだと思う。
そんな中で、「○○さんが好きです」と開示することは、わざわざいじられに行っているような行動であり、○○さんもろとも巻き込む行動となる。
仲良い人たちの中で秘めておけばいいのかもしれないが、所詮は小学生。信頼して打ち明けた相手でも、シュークリームのような口当たりの軽さで悪気もなく「△△さんが○○さん好きなんだって」とベラベラ喋ってしまい、相手にバレてしまうのがオチ。
特に1学年1クラスしかなかった、わたしの出身小学校では、一度そういう噂が立てば永久に残ってしまうこととなる。
ならば、好きな人なんていないことにするのが1番平和だ


けれど、自分の話はしたくないけど、人の話は聞きたいのが小学生。ミーハーですね。
普段から回しまくっていたお手紙もさることながら、宿泊体験学習、修学旅行…そうしたイベントの時に「ガールズトークをする」という響きだけで胸がときめくのがミーハー小学生。
でも、聞いてばかりじゃ叩かれる。
私は好きな人言ったのに、お前は何も話さんのかい!!」と。
そんな時の妥協策として生まれたのだと思う、「マシな人」は。
好きな人はいないけど、マシな人ならいるよ。これなら情報を仕入れる交換条件になるし、かといって好きな人を教えたときのように火傷を負うリスクもない。だって好きじゃないんだから。証明おわり。


結局そんな中身のない話ばかりしてたから、誰が誰をマシな人と言ったのか、はたまた本心はどうだったのかなんて知らないけど、
宿泊体験学習で隣の部屋に行って、そこの友達と電気を暗くしてガールズトークして、夕食に遅れそうになったこと、それだけは覚えてる。

そんな時代もそんな時代で楽しかったことは認める。認めるが、
恋をしてもいい、しなくてもいい、そうやって羽を伸ばせる社会人のわたしたちから見ると、まだまだ小学生のあの時代は子どもだったなと思うし、
やっぱり生きている世界が狭いからみんな他人に干渉したくなるし、そんな中生まれた「マシな人」という概念は「好きな人がいても隠れ蓑にできるありがたい概念」として、または「好きな人がいなくても情報を交換するために利用できる便利な概念」として、活躍し続けてきたのだろう。そんな概念が生まれないといけない小学生の世界は、やっぱり狭いし窮屈だけれど。


でもさ、実際問題「マシな人」って言われても嬉しくなくない?
打算抜きで、本気で愛をぶつけられる人が一番かっこいいと思うわ。