三味線が聞こえる
先日、近所の公園に初老の男性がふらりと現れ、三味線を弾きはじめた。
私たちは沈黙した。
その張りのある音と、ひたむきな弾き方に圧倒されたのだ。
日曜の真昼になんでとか、何者とか、この公園って楽器演奏OKなのかとか、いろいろな疑問を寄せ付けない迫力。
三味線の音は、思いのほか、よく響く。
公園を離れても、その音はしばらく聞こえていた。
その淀みなく続く演奏を聴きながら、私は佐助のことを思った。
谷崎潤一郎「春琴抄」の佐助、後の温井検校。
佐助は奉公先の令嬢である春琴への憧れが高じて、密かに三味線を入手する。
番頭に見咎められぬよう、棹と胴とを別々に天井裏に持ち込むところがかわいらしい。
真っ暗な押入の中で、夜な夜な一心不乱に稽古する佐助。
春琴抄を初めて詠んだとき、句読点や会話文の括弧のほとんどない、それでいて、つかえることもなくすらすらと読める文章に衝撃を受けた。
公園の男性の演奏を聴きながら、あの文章は三味線の音そのものだと、改めて思った。
あれ以来、三味線の男性を見ていない。
あれは、真夏の幻だったのだろうか。