先日、100分de名著のファンミーティングに行った。 能楽師の安田登さんと、ジャズシンガーの綾戸智恵さんのコラボで、源氏物語をはじめとした古典の話やジャズの話など、多岐にわたる興味深い対談。 特に、「偶然を必然にする」というお話が印象的だった。 様々な人や出来事との偶然の出会いを見逃さず、興味をもって近づいて、必然の出会いに変えていく。 パワフルで素敵な考えだと思う。 思えば私が短歌を始めたのも、全くの偶然だった。 たまたま日経新聞をとっていて、学生時代にエッセイを愛読
夕方、あっという間に日が暮れるようになった。 時々びっくりするくらい暑くなる日もあるけれど、やっぱり秋なんだなあと思う。 夏の夜、汗でじっとりしながら、まだ明るさの残る川沿いを帰るとき、空にはコウモリがひらひらしていた。 鳥のような蝶々のような、不思議な存在。 ああ今日もなんとか一日終わったと、ほっとする瞬間。 日の短くなった今は、真っ暗の川沿いを、月を眺めながら帰る。あのコウモリたちは、どこに行ったんだろう。 秋は、寂しくて、もの悲しい。 すぐに暗くなってしまうからだ
10月も後半に入ったのに、驚くほど暑い。 と思ったら、しっかり寒い日もあり、ついていくのが本当に大変。 金曜日までたどりつくと、ずっしりと体が重い。 そんな夜は、疲れているのになぜか寄り道したくなり、かといって街に繰り出す元気はないので、大抵家の近くのファミレスで、ぼんやり過ごす。 ぼーっとしながら、最近は、終の住処について考える。 小さい頃から引越しを繰り返してきたために、私には、ふるさとと呼べる場所がない。 おまけに二、三年おきに転勤する仕事についたせいで、大人になっ
いつの間にか、8月が終わった。 常軌を逸した暑さも引いて、窓を開けると、虫の音が響く。 ほっとするとともに、ちょっとさびしい。 夏の終わりがさびしいのは、子どもの頃から変わらない。夏が苦手なのに謎だ。 年をとって、若い頃とは価値観もずいぶん変わったけれど、子どもの頃の自分とは、地続きのような気がする。 少し前の日経新聞に、童話屋の創業者の方のエッセイが載っていた。 目の悪くなったまど・みちおさんのために、「ぐりとぐら」を読んであげたときのエピソードが素敵だった。 大きな
家の裏の雑草が、恐ろしいほど伸びた。 生えはじめのころに気がついて、抜かなきゃなあと思っていたら暑くなってきて、気がついたら背を越されていた。 猛暑で人間はへとへとなのに、植物は強い。 調べてみると、背高泡立草のようだ。 秋に咲く黄色の花のイメージしかなかったから、同一草物(?)とは思わなかった。 大きいものは3mくらいになるらしいから、これからもっと伸びるかもしれない。 ちょっと楽しみ。 いや、実がなる前に抜かなきゃいけないとは分かっているのだけれど… 先日、公園で、
待ちに待った週末、いろいろやらなきゃいけないことはあるけれど、暑すぎて呆然としていたら土曜日が終わった。 最近は暑さと疲れのせいか、本を読みたいと思っても、なんだかしんどくて、手が伸びない。 でもどうしても読みたいので、最近は、昔読んだ本を引っ張りだして、再読している。 一度読んだことがあるので、読み始めるハードルは格段に低いし、いざ読み直すと、結構発見があって面白い。 「迦陵頻伽」(かりょうびんが)という言葉は、この間、謡の「吉野天人」を習ったときに、初めて知った!と思
毎日暑くて、もう溶けそう。 それでも日常は続き、週末はやってくる。 週末のお楽しみ、能の仕舞のお稽古で、 「まだ若いから、飛べるでしょ?」 と先生に言われ、思わずえっ、と声がでた。 そもそも、もう若くない。 とはいえ、お稽古場では最年少だから、若くないですとは言いづらい。 でも、相対的に若いとはいえ、人一倍運動音痴の私が、飛べるとは思えない。 飛べる、というのは、未来に羽ばたけるとかそういう意味ではなく、仕舞の型の一つ「飛び返り」に挑戦できるという意味だ。 くるっと回
いつか、竹生島に行ってみたいなと思う。 出不精の私にしては珍しい願望だけれど、深い意味があるわけではなく、ここ数週間、謡曲「竹生島」のお稽古をしているせいなのだ。 竹生島詣でに来た都人が、不思議な漁翁と若い女性の乗った釣舟に乗せてもらう。 実はこの二人、龍神と弁財天なのだけれど、正体が分かるところの場面まで、まだお稽古が進んでいない。 翁が都人を釣舟に乗せて進むときの、 「今日は殊さら長閑にて 心にかゝる風もなし」 という部分が好きで、何度も謡う。 私の日常はといえ
通勤の朝、川沿いの道を、駅まで歩く。 ふさふさになった桜並木の緑が風にゆれて、重たい心を慰めてくれる。 最近、桜の下で草刈りをするおじいさんを見かけるようになった。 最初は区の職員さんかと思ったけれど、ずいぶん高齢だし、いつも一人で、小さな鎌で草刈りをしているところを見ると、委託業者さんでもなく、個人のボランティア?のような感じがする。 花守、という言葉が浮かぶ。 先日観たお能「女郎花」の、前場と呼ばれる前半部に現れる老翁。 旅の僧が、咲き乱れる女郎花を手折ろうとしたの
五月の終わり、仕事帰りの夜の電車に揺られながら、今月のはじめはまだゴールデンウィークだったんだと気がついて、愕然とした。 年をとったら時間があっという間に過ぎると聞いているのに、どうしたことか。 毎日がときめきの連続で、一日が長く感じられるというなら素晴らしいけれど、五月の長さは、そのようなものではなかった。 そして、こんなに長かったのに、全然短歌が作れなかった。 毎週投稿している日経歌壇には、仕方がないので、これまで単語帳に書きためていたものから選んで、なんとか推敲して
十年日記も二冊目の、二年目に入った。 去年の日記を見ると、仕事が辛いとか体調が悪いとか、今年の自分とかわりばえのしないことばかり書いてある。 違うところといえば、去年の今頃は、引っ越し準備に追われていた、ということだ。 今の家に住んで、もう一年近くになるのかと思うと、本当に時の経つのは早いと思う。 引っ越しを機にいろいろな物を処分して、少しは身軽になったはずが、前より家が広くなったせいか、順調に物が増えている。 物が多くても、片付け上手ならいいのだけれど、残念ながら片付
先日のNHK短歌のテーマは、「家族」。 今一緒にいる家族、少し離れてしまった家族、もう会えなくなった家族。 いろいろなかたちの家族があるなあと、入選歌を見ながら、しみじみ思った。 嬉しいことに、私の投稿歌も選んでもらえた。 あの傘は父さんが差していったから十年たっても見つからないね (2024.5.12NHK短歌入選・俵万智選) 高校生のころ、俵万智先生の「恋する伊勢物語」を愛読していた身としては、ただただ、感無量、というほかない。 当時から古文や和歌は好きだったけれ
予想していたことだけれど、連休明けの仕事は、つらい。 帰宅するとへとへとになって、それでも翌日はまた向かわなければならない。 生きるために働いているのに、働いているせいで生きるのが…と、いつものぐるぐるに巻き込まれそうになる。 仕事がつらいとき、慰めてくれるのは、行き帰りに出会う野の花だ。 時期は終わってしまったけれど、早春に咲くハナニラが、特に好き。 英国では、スプリングスターフラワーというらしい。確かに、小さな星のかたちをしている。 夜、野原一面にハナニラが咲いていると
四国の祖母から、八朔がたくさん届いた。 祖母は昨年亡くなったので、正確には、祖母のいた家に住む母から、なのだけれど。 毎年祖母の名前で送ってもらっていたから、四国からの贈り物は、祖母から、という感じがする(母にも、感謝)。 私は、八朔が好きだ。 最近は、あまり人気がないみたい。 たしかに、分厚い皮をむき、さらに薄皮をむき、ようやく食べたら水分は少なめでちょっと苦いという、現代人には不向きな果物かもしれない。 香りも、最近の柑橘たちに比べると、きわめておとなしい。 でも、
日々、短歌をつくり、主に日経歌壇に、時々NHK短歌に投稿して、数年が経つ。 たまに採ってもらえると嬉しいし、評をもらえると、舞い上がる。 数年続けてみて思うことは、力をこめて作った思い入れのある歌は、大抵採られない、ということ。 これまで採ってもらえたのは、朝起きて、ぼーっと白湯を飲みながらふっと浮かんだものや、川沿いをぶらぶら散歩しながら、なんとなく思い付いた歌がほとんどだ。 やはり、無駄な力が入っていると、よくないのだろうなあ。 能の仕舞も、習いはじめて一年になるけれ
新年度が始まった。 自分は異動しなくても、同じ部署でいろいろと人の入れ替えがあり、毎度のこととはいえ、慌ただしくて心がざわざわして、意味もなく疲れてしまう。 新しい人たちとの出会いに、ワクワクできるような性格ならいいのだけれど。 昔から、変化が苦手なのは、変わらない。 新しい人たちを迎えて、仕事のスタイルもいろいろだ。 朝型・夜型、職場派・在宅派、それぞれに自分のやり方がある。 あなたは何型?と聞かれて、笑ってごまかすしかなかった。 朝も夜も、本当は休みたい。 日中に短