私の中にいる幼い私
臨床心理の分野に飛び込んで5ヶ月が経った
いろんなケースのカンファレンスを通して、幼少期の親子の関わりの重要性をとても感じている。
だから、自分の過去も、こうだったかな、ああだったかなと、振り返ることが多くなった。
自分で自分のことを見ようとするとどうしても客観的な視点を持てないので、今から書くことは偏った見方ではあるけど。
私は、幼稚園から小学校3年生ぐらいまで、登園・登校しぶりが酷かった。
当時習いごとをしていたんだけど、それも行くのを渋っていた。
なんで行きたくなかったのか、一つには感受性の高さとか感覚過敏とかがあった。
行かないことによって、母や祖母は、怒る、部屋に籠るといった具合に、行けない、行きたくない気持ちに寄り添ってもらえることがなかったと思う。
少なくとも私の記憶はそう。
できないと、行かないと、私は認めてもらえない。
この家にいるのが辛くなってしまう。
そう勝手に思っていたんだと思う。
元から持つ完璧主義的な性格に加えて、
できないことは悪(言い方はもっとある、と思うけど笑)みたいな思考が完成したんだと思う。
幸い、周りの人が手をかけてくれ、勉強も部活も向上意欲だけはあったので、その後はできることが増えて、認められないこともなくなった。
だけど、結局できなければ認められないのだ。
母や祖母の、私を見るメガネは、私の中にしっかり作られて。
自分もそのメガネをかけて自分のことを見ていた。
だから、他人との比較が止まらなかったし、比較してはいちいち落ち込んでいた。
特に高校時代は本当に辛かった。
今になって、恋人ができて、本当に全てを受け入れてくれるような人で、優しい眼差しを持っている人なんだけれど、
徐々に幼い頃に消化しきれなかった、
無条件に認めて欲しい
っていう思いが、恋人に対して出てきた。
親子関係の中で蟠ってるものは、恋人に対して向けられることもあるってことを知った上で、きっと自分もそうなんだろうと思った。
ある程度は、というよりほとんど、過去の話は恋人にした。
寄り添うよ、と言ってくれて、本当に私の恋人がこんなに素敵な人でいいんだろうかと思ってた。
寄り添うよとは言ってくれたけど、
この幼い私が暴れれば暴れるほど、恋人を傷つける。
思ってもないことを言って、相手の気持ちを確かめようとする
自分与えて欲しいものを要求したら、与えて欲しくて、あれやこれやと理由付けして相手に迫る
全部幼い私が親にやって欲しかったこと。
さて、これはどうやって消化されていくんだろう。