【感想】英雄論:英雄足り得るとはなんなのか?
これから暁月をスタートするにあたって「そもそもこれやってないじゃん」が多数生まれているので連続で消化中。その一つが蒼天のイシュガルドで追加された「三闘神」にまつわるクロニクルクエスト「古の神々」。
ウリエンジェ経由でコンタクトを取ってきた謎の少年「ウルクアヌハイ」。仮面を顔に着け、白いフードをかぶっていていかにも怪しい彼は「超える力」を持っていて、少しだけだが「蛮神の思考を読み取る」という稀有な能力を持つ。クリスタルの加護は受けていないが、テンパード化する可能性はないとされ、事実蛮神と相対しても影響を受けることがない。
彼とともにアラグ帝国が封印していた蛮神(アラグ風に言えば闘神)たちを倒すことが目標となり、そこにガレマール帝国の軍人であるレグラ・ヴァン・ヒュドルスも絡んでくる……という流れだ。
さて物語を最後まで進めるとウルクアヌハイは「自らの故郷は今ヴォイドと呼ばれている」と話し出す。そうか!ここでやっとヴォイドアークが一体どこからやってきたのかが分かるのか、と点と点が線でつながった気がする。
ヴォイドの話は新生からちょろちょろと見えてくるが(たとえばアラグの人々はこのヴォイドを指して「闇の世界」と呼んでいる)、はっきりと存在が現れたのは蒼天あたりだ。そもそもヴォイドとは人々が暮らす物質世界とは異なる世界。ゆえに「異界」と表現されることが多い。
その正体は鏡像世界のひとつ第十三世界の成れの果てだ。つまりウルクアヌハイはこの第十三世界の出身であり、光の戦士になりそこなってしまった男の子だった。
なんかややこしいので、自分用に話を整理
判明順ではなく時系列。
まず古代人の時代。突然様々な異常が発生しアーモロートも破滅。結果十四人委員会の決定で、エリディブスを核としてゾディアークが召喚された。異常はゾディアークによって沈下される。
ところがその強い力を恐れたヴェーネス派の人々は、ヴェーネスを核としてゾディアークの枷となるハイデリンを召喚、ゾディアークとハイデリンは激闘の末、ハイデリンキックがさく裂しゾディアークのみならず古代人の世界も14に分裂してしまう。
これにより原初世界+13の鏡像世界が誕生、生き物の魂も分裂。
そのためオリジナルとしてハイデリンキックを逃れ生き残ったラハブレア、エメトセルク、エリディブスはアシエンとしてアーダー(次元圧壊、つまり霊災)を起こすべく活動をスタートする。
しかしアシエンとしてクリスタルを与えられたアシエン・イゲオルムが、エメトセルク曰く「頑張りすぎた結果、第十三世界はヴォイドと化して使い物にならなく」してしまった。(つまりウルクアヌハイはこの前後の生まれ)
ヴォイドと化したのがいつ頃かは不明だが、アラグ帝国の時代にはすでにそうなっていたようだ。実際クリスタルタワーでは、ザンデがヴォイドと契約したという話をしている。だからその時代にはすでにそうなっていたはずだ。
その結果アシエンたちは行動を慎重にせざるを得なくなり、結果として第七霊災まで起こすことに成功する。
やがて時代が下りヒカセンが現れ、クリスタルタワーを攻略したりアシエンと出会ったりした結果、第十三世界出身のウルクアヌハイからのコンタクトを受ける。
ちなみにヴォイドは闇属性のエーテルが偏った結果生まれている。つまり光属性のエーテルに偏って生まれた「罪食い」とよく似た存在であると言える。ただエーテルごとに何が発生するかは異なるため、停滞をつかさどる光の「罪食い」は他者を害することで仲間を増やす(自分は変化しない)のに対し、ヴォイドは他者を害しエーテルを取り込むことで、自らの力を強めるという違いがある。
つまり、クリスタルタワーで闇属性に偏った敵と相対したグ・ラハはその後水晶公となって光属性に偏った罪食いと相対している……状況に異なる点は多いが、漆黒の物語は数千年前、第十三世界でも見られた光景だったのかもしれないし、ウルクアヌハイのポジションにヒカセンがいたかもしれないのだな、と今更ながら思う。
英雄足りえるとは何なのか?
さてそんなバックボーンを持つウルクアヌハイは、自らの故郷が滅んだ原因の一端でもあるエリディブスを「我が主」と慕い、今度こそ世界を救うためにヒカセンに協力を求めることになる。故に英雄という存在に固執し、自らの非力を嘆くことも。
しかし目の前で目撃したレグラの最期や、ヤ・シュトラの叱責に次第に考え方を変えていく。
つまり「英雄は英雄になろうとしてなれるものではない、行動の結果としてついてくる称号」であるということだ。
ヒカセンの場合もレグラの場合も、英雄になろうと思って行った行動は無い。ただ誰かのためになりたい、誰かを助けたいという純粋かつ衝動的な行動の結果、英雄になることができる。なろうと思ってるなるのではなく、行動したものに初めて与えられる称号なのだ。今考えてみると、蒼天のイシュガルドはこういう話だったなぁ、と思う。
ヒカセンは自分を助けてくれたオルシュファンに報いたいとか、仲間を助けたいとか、汚名を返上したいとか、とにかく本来イシュガルドとはあまり関係ない立場からスタートする。ところが結果としてその行動はイシュガルドを救うことになり、ゆえにイシュガルドを救った盟友であり、竜と人間を融和へ導いた英雄になる。
スタートと結果論が全く違うからヤ・シュトラは「軽々しく英雄という言葉を使うな」という。英雄という言葉の理想と現実を痛いほど理解しているからこそ、ヤ・シュトラの言葉は重たい。
FF14は英雄になろうとした人の物語ではない。前に進もうとするうち止むに止まれず英雄になってしまった人の物語と言ったほうがしっくりくる。それは私を含めた一部のプレイヤーにとってもそうだと思うし、身近でヒカセンを見ていた暁の面々にとっても多分同じことなのだ。
大きな時代のうねりからは、いかなる英雄であっても逃れることができない。
この辺の話を取り上げているものというと幻想水滸伝というイメージだ。英雄という巨大な存在ももっと巨大な民衆という波の中に飲まれてしまえばあっという間に窮地に追い込まれ、場合によっては英雄を求めていたはずの民衆から殺されてしまう。皆から求められてその立場に立ったのに、その立場を求めていた皆から拒絶されるという構図は現実世界でもよく見かけることだ。
しかしウルクアヌハイはこのことを知らない。経験をしていないし、見てもいない。彼はこういう現実を知る前に英雄になり損ねて故郷がなくなってしまったから、英雄という存在を強烈に求めて崇め理想化し、自分が英雄になれなかった理由を探している。
こういうところはどんなに大人ぶっていても実に子供っぽくて、ウルクアヌハイの可愛いところだ。エリディブスはウルクアヌハイのこういうところや、故郷を救えなかったところにちょっとばかり共感したのかもしれないな、とすら思う。
英雄になりたかったのになれなかったウルクアヌハイや、英雄を目指さざるを得なかったエリディブス、英雄に勝手になってしまったヒカセン、結果的に英雄とは何たるかを教えることになったレグラ……実に人生とはままならないものだよな~という気持ちにさせてくれる人々ばかり好きになってしまう。
FF14の世界において、英雄とはなろうと思ってなるものではなく、きっかけがあって英雄と呼ばれたひとがそうあろうと努力する……というものなのかもしれない。
そういう意味では、ウルクアヌハイはまだ英雄になる可能性が存在する。なろうと強く願って行動を起こし、きっかけさえあればそういう未来もつかめる。まだまだ彼は可能性の塊だよなぁ!と思っているので、今後暁月にちょっとでも顔を出してくれたらうれしいなぁ。
エリディブスの心情が気になる
アーダー、原初世界でいうところの霊災を起こすにあたって割と手段を問わないアシエン達。
しかしエリディブスはウルクアヌハイを哀れんだのか、それとも利用価値があると踏んだのか、自ら彼の主となって、世界が滅ぶ原因を排除するため原初世界に彼を送り出す。
ウルクアヌハイの言葉からすると、エリディブスは彼に世界の真実もある程度教えているようだ。多分新生~蒼天あたりのウリエンジェへの接触に近かったのではないか、と思っている。
多分ウルクアヌハイの成功体験があったから、エリディブスはウリエンジェたち暁に接触することを考えたのだろう。その結果として漆黒に至ってオリジナル・アシエンは全滅に至る。
これはすでに故郷が滅んでしまったウルクアヌハイと、これからまだ大きな災厄に見舞われる可能性のある原初世界出身の暁メンバーでは、言葉の感じ方や未来をどうするかといった対抗策まで、何もかも違ったというのが原因だろう。
そういう部分を彼は「見誤った」とWoL討滅戦直前に表現した。すでに戻る場所のない人と、戻る場所を守りたい人では考え方も行動内容も変わる。そのことを戻る場所を守りたい立場に立ったことのない、あるいは忘れてしまったエリディブスは完全に見誤ってしまったのだ。
自分が命を懸けても守りたかった人がいるのと同じように、原初世界を生きるヒカセンたちも守りたい人、守りたい場所があった。そういったものをどうして守りたいのか、なぜ守ろうと思ったのか、改めてエリディブスの忘れてしまった物の重みと、その大切な事実を忘れてもいいから遂げたかったという事実に泣きそうになる。それからアルバートが忘れかけていたものを取り戻したことも。
新生から漆黒まで、人間のどうしようもないサガを見せつけられるシーンもいっぱいあった。
だが同時に、それでも生きたいと願い続ける人々への賛歌なのだなぁと思ってやまない。
漆黒の最後「これで正しいかわからないが、それでも進む」といったアルフィノの姿勢が、まさにFF14の物語を表したいいせりふだったな~と、今更蒼天コンテンツをプレイして考えたりするのだった。
正しいかどうかは後世の人しかわからないのだから、それでも進まなきゃならないのだ。多分それが、英雄に必要な素質なんだな。
ヴァリスの友人:レグラ・ヴァン・ヒュドルスがいてよかった
さてほとんどメインでからんでくることはなかったし、セリフも二言、三言で終わってしまったレグラ・ヴァン・ヒュドルス。せっかくならもっと小杉十郎太さんの渋かっこいいボイスを浴びたかった。主従そろってめっちゃイケボおじさんじゃん。最高だね。
というのはさておき、今漆黒まで終わったところだからこそ、レグラ・ヴァン・ヒュドルスという人がヴァリスのそばにいてくれてよかったな~と思う。
ヴァリスについては散々語ってきている。
ヴァリスはその生まれ育ちの環境のせいか、死ぬほど苦労してきたんだな…が透けて見える人だ。軍人としてすさまじいキャリアを築いても自分が満足するような名声を得られるわけでもなく、祖父から次の皇帝と指名されるわけでもなく、息子に顧みられることもない。
その分部下にはある程度恵まれて良そうだが、友人同士であるレグラが高潔な人で本当に良かったな~と思う。
逆に言えば、漆黒に突入する前にこのクエストをやっていたほうが、急速に暴走を始めるヴァリスの動きにより説得力を感じられたかもしれない。
レグラの言動を追ってみると、彼は非常に優秀な合理的思考の持ち主ではないかと思える。またウルクアヌハイに対する最初の態度も、子供に対しては馬鹿にするというよりも、お前みたいな幼いやつが戦場にいて良いわけないだろ(倫理的に)、という至極まっとうな方向性での発言だ。
一緒に行動しているときも「蛮族と一緒に行動するのは納得いかないけど、今はこうやった方がいいから仕方ないな」みたいな態度だし、自分の感情と理性をきちんとわけて判断できる頭脳の持ち主のようだ。
だからもしも、漆黒の時点でレグラが生きていたらヴァリスの行動はもっと抑制されていたかもしれない。黒薔薇の製造を止めたかもしれないし、もうちょっとヴァリス自身余裕があった可能性もある。
そういう風に思うと、やっぱり他人に相談できる相手のいないヴァリスという人は詰んでるよな~……と思ってしまう。
そういうヴァリスの人生において、レグラという人がどれだけ光明だったかと考えてしまうのだ。
レグラは名家の生まれとはいえ自分の腕一本で今の地位を獲得した。幼いころからヴァリスとは知り合いだったらしく、親友とも呼べる間柄だ。そのうえソルが死んだあと、すぐにヴァリス支持を宣言し彼の帝位争いに大きな影響を与えた。
レグラは自らを取り立ててくれたヴァリスに忠誠を誓っていたし、ヴァリスは自分を一途に支持してくれるレグラを信用していた。ある意味で地位を超越した対等な友人関係だったんだろう。
そんなレグラが死んでしまった時、ヴァリスはどう思ったんだろう?想像するしかないけれど、彼の心情は察するに余りある。
きっとヴァリスの苦労を一番身近で理解してくれる、そういう人がレグラだったはずだ。
男同士のコミュニケーションについて、女である私にはわからない部分も多い。しかしだからこそ、苦労ばかりで満足な評価も得られなかったであろうヴァリスが、友人にだけは恵まれていたと願ってやまないのだ。
ままならない人生を送る羽目になった彼のことを、どうにも私は憎めず同情的な目で見てしまう。二人で過ごした記憶が彼の人生における慰めになってくれていたらいいなぁ…。誰かにとっての英雄でも、また誰かにとっては大切な友人なのだな、人の評価は多面的だよな~
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