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【感想】それでも「理由があってほしい」のが人ってものだ

こちらの続きです。

ということでff14暁月までの総評第2弾。
先日アップしたこちらの記事では、私としては珍しく批判的に物語を見てみた(注:基本的に、私は与えられると大体おいしー!と食べることが多いので本当に意見表明すること自体が珍しいです)。ので、今回は好意的に暁月までの物語を見てみる。

ff14は過剰な説明をしすぎた物語だと個人的には思っているけれど、全てに理由がないと不安なら別にそれでもいいんじゃね?と思うし、黄金のレガシー実装後に爆速でメインを終えている人たちを見ていると、これくらい説明しても伝わってない人も多いだろうな、とも思っている。そういう意味では死ぬほどユーザーフレンドリーなゲームだ。
また説明のないゲームを遊びたいならフロム・ソフトウェアの信者であるべきなのかもしれないと思っているが(また実際に信者ではあるが)、さておきまるで真逆な「ゲームの中で全部説明してやるぞ!」という気迫は本当にすごいと思うので、どうしてそういう方向性なのか考えたい。

こうした気迫は、同じ会社で開発されたはずのNierやDODシリーズにはなかったので、やっぱりプロデューサーやディレクターの色がこういうところに出るんだなぁ~と思う。
それが良い悪いはあるかもしれないけれど、ひとつの味になっている。

全てが暁月に収束する物語

さて前回の記事では「何もかもに理由付けをしたいがために、最初に存在した型に様々な設定をはめ込んでいった物語がFF14だった」と書いた。
逆説的に言えば一部の隙もないくらい、すべてのピースがかみ合わないとこの結論に至らなかったジグソーパズルのような物語だ。ここまで徹底的につじつまを合わせて、すべてに理由を存在させようという気概がすごい。

物語の中で一つ一つの矛盾や隙間の穴を埋めるように、細部にわたって丁寧に繋がりを作っていくイメージだ。
そうしてその穴に詰められた「何か」にはバックボーンが存在していて、そこに物語がある。その物語がゲームの中で…たとえばNPCに話しかけることで語られたり、サブクエストで話されたり、ムービーで差し込まれたりしている。そうしてそれを拾っていくと、メインクエストがより味わい深いものになる。

たとえば蒼天と紅蓮のノーマルレイドである「アレキサンダー」や「オメガ」は、極端な話ゲーム的には別にやらなくていい。

また蒼天のアライアンスレイドである「シャドウ・オブ・マハ」や同じく蒼天の「三闘神」も、別にやらなくていいがやっておくと漆黒・暁月がより面白くなる。

みんな言っていることだけど、新生の後半から蒼天にかけて謎の種まきがものすごい量行われている。そうしてその種を漆黒・暁月で回収している。
もはや執念すら感じる(たとえばアジス・ラーにいるティアマトのことなどほぼみんな忘れていただろと思っていたし、彼女がけじめをつけるのは先のことかと思っていたから、暁月前に回収していて驚いた)。

そういう意味で、少なくとも物語や世界観を構築するスタッフはプレイヤーに対して真摯な人たちだ。
この世界のすべてを、別のコンテンツを経由せずゲームを遊ぶだけで理解してもらえるようにしたいという努力が感じられる。なにより、エオルゼアという世界を舞台にするから、そこに因果を繋げようとしている。

たとえば同じ会社から発売されたNierシリーズなど、2,3周プレイしたうえに設定資料集を読まないと分からないこともある。
そういう「あまりにも語らなすぎるゲーム」よりは「語りすぎるぐらい語っちゃうゲーム」の方が今の時代にはマッチしているのかもしれない。

気持ちよさの追求:因果が報いるということ

さて私はコーマック・マッカーシーの作品が好きだ。この辺の作品は特に偏愛している。

小説を書くのが好きなオタク全員に押し付けたいくらい愛しているのだけれど、マッカーシー作品はFF14の対局にあるかもしれないというくらい、情報がそぎ落とされている。
例えばマッカーシーの代表作、ノー・カントリー・フォー・オールド・メンにはこんな文章が出てくる。保安官のベルが目の前の砂漠を見つめているシーンだ。(ここの文章がすごく好きなので引用しただけで、全編こんな感じの本だ)

ベルは砂漠を眺めやった。静かだった。電線が風に低く唸っていた。丈の高いブラッドウィードが道路沿いに生えていた。ワイヤーグラスとサカウィスタも。石のごろごろする涸れ谷の向こうにはオオトカゲの足跡がついていた。午後遅くの日差しに赤肌の岩山の連なりは翳り東のほうでは煤のように黒い雨雲の緞帳が四分円弧に沿って垂れ込める空のもとで砂漠の平原の横座標が揺らめいていた。

ノー・カントリー・フォー・オールド・メン
コーマック・マッカーシー作/黒原敏行訳

マッカーシー作品が好きなのは、このような主観性を排除しただ事実を描いているだけである=神がその場に存在しないからだと常々思っている。もしもこの文章がFF14になったら、ここに「風が冷たく寒そうだ」とか「オオトカゲがいるからきっと大きな魔物もいて、その魔物に襲われた人もいるだろう」といった、ヒカセンたちの主観が一緒に語られているだろう。

でもこの作品では、そういったバックボーンや因果は一切語られない。
なぜならマッカーシー作品においてバックボーンや因果は、結果に関係ないからだ。

ここでも散々話したが「いい人」が「良いことをする」ことには本来因果関係はない。たとえ「悪い人」が「良いことをする」としても、それはそれで成立するし、「いい人」が「悪いことをする」としたって、それは成立しうるのだ。

たとえばアシエンたちは鏡像世界のいくつかを滅ぼし、原初世界や第一世界でも暗躍していたが、それは「古代世界の復活」という本来善い行いになるはずだったものが根底にある。

でも、メインクエストそのものは不条理ではいけない。
それはヒカセンという英雄がエオルゼアを救う物語だからであって、敵にどんな事情があっても最後にはそれに打ち勝って世界を守らねばならないからだ。
そのためにひとつひとつ理由を積み上げて「だからヒカセンはこの世界を救ったのだ」と説得力を作っている。物語を作るために理由を作って積んでいった結果が14なのだ。

14の物語で一番好きなのはここだ。
「相手にどんな事情や理由があっても、それが自分たちの世界を守ることを諦める理由にはならない」「相手の事情と同じかそれ以上に、自分の世界を守る理由がある」ということを何度も訴えているところが好きだ。
繰り返しになるが、14の物語はこの根幹を語るためにしつこいくらい因果を語る。その因果は行動であったり、人とのつながりであったりする。

私が好む物語とは正反対だが、そのほとんどの行動が因果応報の物語としてエオルゼアの中では語られている。そういう意味ではすごく気持ちいい物語だ。
マッカーシー作品は正直気持ち良いとは言い難い。読後感は嫌~な気持ちになるし、悪者は裁かれない。それなりに苦労したはずで、落ち度のない人がとんでもない目に遭う。

世の中はそういうものだが、FF14で描きたいのはそういうことではない。そもそも物語の本題がそこにはないから、表現手法として説明を丁寧にやるのだ。

物語の語り方と面白さは別物だったことを思い出した

ということでダラダラと「FF14はなぜ過剰なまでに説明する物語なのか」を考えてみた。私の考えは「物語的な気持ちよさを追求した結果」+「訴えたいことの根幹にかかわるから」だ。
訴えたいことの根幹については、別件で記事を書くつもりなのでここでは書かないでおく。1万字超えそうなので。

それからFF14がMMO RPGであり、本編をクリアした後に追加要素が多く速く終えれば終えるほど得になるというのも、こうした物語になった大きな理由だろう。
つまり「しつこいくらい何度も大事なことを言わないと分からないし、最悪ダンジョン内のボイスだけで伝わる構成にしないといけない」ということだ。

暁月と同じくらいボリュームのある黄金も1日でクリアしている人がいるわけで、そういう人たちが真面目にストーリーを全部見ているなんて到底思えない。となれば、さっとななめ読みでも理解できるくらいしつこくテーマの話をするのは必然と思える。

別に駆け足でメインをやることを批判したいわけじゃないので留意されたし(個人的にはかなり勿体ないからじっくりやってみたら?とは思いますが、ゲーム的に仕方ないことは理解しているので)。

こうした要素を考えれば、語りすぎなくらい語ってても仕方がないのかもしれない。
それに、ゲーム内で大体のことが分かる方がすっきり気持ちよくプレイもできる。物語を何度も繰り返し遊ぶことは想定されていないタイプのゲームだと思うので、一回で謎がすっきり解けて、大体理解できるくらいの塩梅が良いともいえる。
この辺が「物語を読む気持ちよさ」に繋がる人は多いと思うし、実際私もすっきり終えられたのでよかった。

さてこのようにいろいろ言いたいことはあるな~と思っていても、この物語そのものがつまらないとか、好きじゃないとは思っていない。
しいて言うならもっとこうしてもらったほうが良いな、と思っていたくらいで、それは語り口の問題だった。だから内容には何にも文句はないし、むしろ10年かけて丁寧に描かれた世界を救うストーリーを2年くらいで体感できて贅沢だったな~!と思っている。
多分これからもそう思うだろう。

今後の黄金に期待することと、感想を書くということ

個人的には叶うなら、黄金に突入してから古代人たちの話が出てこなければ完璧だ。
FF14はいつまでも過去の因果を未来にどう繋ぐか、という話をしていてほしいけれど、彼らの話はもう終わったことだからだ彼らが星海に帰った今、そんなことをうだうだ続けるのは野暮なことだよなぁと思っている。
彼らのことは愛おしく思うけれど、その思いが魂を縛り付けてしまうのはエメトセルクやヴェーネスの思いに反するはずだ。

アゼムであることすら捨てて、ただの冒険者としてトラルを冒険できたらいいなぁと今のところ願っている。

ところで黄金はあまりいい評判を聞かない。だからできるだけ前向き~な感想を、後発組だからこそいっぱい書いていきたいなぁと思っている。

しかし他人の因果は私に関係ないので、もしも自分がつまらないとか、面白くないとか、自分向きではないと思うなら、それは私の中で完結する感想でしかないことは、今のうちに言っておきたい。それって私の感想ですよ、ということだ。
だからどうかこの記事を読んだ人くらいは、同じように他者の因果にとらわれずに自分だけの感想を大切にしてくれていたらいいなぁと願っている。

それこそがヴェーネスがハイデリンになってまで求めた「自分が自分であり続けること」でもあると思うし、誰かに選択肢や考えを委ねる楽な方向には行かないでほしい。ゾディアークに頼ることは、自らの意思をないものにしてしまうことと同義なのだから。
このへんは暁月のテーマの一つだと思うので、そのレガシーは受け継いでいきたい。

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