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【感想】これからの未来の話をしよう

FF14をまじめに遊び始めて1年と9か月(もうそんなに経った!?)、いよいよ暁月のフィナーレ追加パッチもクリアして、ゲームスタート時のロゴも黄金のレガシーになってしまった。
長いようで、短いプレイ期間だったなぁと思っている。

新生エオルゼアから暁月のフィナーレまでのいわゆる「ハイデリン・ゾディアーク編」はこれで終わる。個人的にはその終わりにふさわしい追加パッチのストーリーだった。

さて、フィナーレを迎えたヒカセンたちはラザハン太守であるヴリトラ(ヴァルシャン)のとある秘密を暴くことになる。それが彼の姉であるアジュダヤの生死にかかわる物語だ。
長い時間を生きる彼にとって一番身近だった姉アジュダヤは、彼の卵を温め孵ってからもそばにいてくれた母親代わりだった。ところがアラグ帝国との戦争の折、ヴォイドから召喚される妖魔を討ち果たすために第十三世界へと渡り、以来消息を絶ってしまう。

ということで特にヴリトラと親交が深くこの謎に足を突っ込むきっかけになった地図を買ってきたエスティニアンと、クリスタルタワーでヴォイドに行った経験があるヒカセン、第一世界にわたる術を研究中のヤ・シュトラを中心に、どうしてヴォイドはヴォイドになってしまったのか、アジュダヤの安否はどうなのか話は進んでいく。

諦めなければ可能性の糸は繋がる

さて、暁月のフィナーレから続く6.1~6.5は可能性と未来の物語だ。
この物語を経てハイデリン・ゾディアーク編は過去のものになり、新たなトラル大陸へと旅立つ足掛かりとなっていく。

個人的にこの物語にまったく古代人たちが関係してこない(そもそもできない)のはとても良かった。彼らはすでに過去の人々となり、今のエオルゼアの人々と繋がりはあっても同一の時代を生きられる存在ではない。
本当の意味で古代の人々となり、今の時代には彼ら自身はいない。彼らの思いや生きていたのだという事実だけが存在しているのはとてもいい。

そんな彼らも信じた可能性や未来の話を彼ら抜きで進めるのだというところがすごくよかった。
ゼロが受け取った可能性や未来を信じ他者を信頼する心は、古代の人々から連綿と受け継がれている。だがその話はもう暁月まででやってきたから、もうやらないぞ、これからは未来の話しかしないからな、とシナリオ担当が宣言するストーリーでもあった。
こんなにはっきり意志表明してくるんだ~!と感心したくらい、はっきりした意思表明だった。

いやいやアゼムのクリスタルがあるじゃん!あれは古代の話の続きじゃん!と言われるかもしれない。
だがアゼムのクリスタルという遺物を使用することはあっても、そこに語られる因果は今後一切なんにも話しませんと宣言されたのだ。

私たちはアゼムがあの流星の降り注ぐ滅びの日、いったいどこで何をしていたのかなんて知らなくていいし、金輪際語られることはないだろう。それは変えようのない過去の出来事だからだ。
あのクリスタルを作ったのがエメトセルクで、彼がヒカセンにアーモロートにいたヒュトロダエウスの影を通じて託してくれたものなのだということもどうでもいいのだ。

ヒカセンにとって大切なのは「ピンチなときに願うと仲間を呼んでくれる」ということだけだ。
ヒカセンはすでにアゼムではない。ヒカセン自身の可能性(選択肢)として、アゼムのクリスタルがある。それはヒカセンが持っているものそれ以上でもそれ以下でもないので、バックボーンはどうでもいい。それはどうすることもできない要素だからだ。故にアゼムがあの日何をしていたのかは語られる必要はない。
増してそこにアゼムの意志や、エメトセルクの意志が乗っかった瞬間、物語は破滅の道を爆走しはじめるだろう。

だから、アゼムのクリスタルを使うことだけがフォーカスされればいい。

ここまですがすがしいまでに「はい、古代人のお話はもう終わりね!」と言い切って黄金がスタートするの、すげぇなぁ。

ほどほどに「可能性の獣」であれ

話は逸れるけれど、機動戦士ガンダムUCに「可能性に殺されるぞ!」というセリフがある。
個人的にこのセリフは「起きるかどうかも分からないことを頼りにしすぎるな」という意味だと解釈している。要するに、起こりうる未来の選択肢が増えすぎるのは良くないことなのだ。

もちろん、いくつかの可能性の中から選択できれば良い。
ところがたくさんの可能性があると、選択肢に惑わされて選びたかった事や選ぶべきだった事を選び取れなくなってしまう。

対してFF14は膨大な選択肢の中から何かを選び取る物語ではないパターンが多い。むしろ選択肢が最初からひとつしかなく、それが潰えてなお暁のメンバーかヒカセンによって、新たな可能性が生まれる。
対して失敗した人々は大体「アシエンにそそのかされる(他者からもたらされた可能性を盲目的に信じる)」パターンだ。それでなければ蛮神や、ガレマール帝国のようにカリスマ的指導者に操作されることになる。

あらゆる可能性が潰えたあとに、蜘蛛の糸が現れる。それに縋り付くと失敗ルートに繋がって、結果的に光の氾濫やヴォイド化、もっと小規模なものであれば蛮神召喚に繋がる。
ゾディアークを召喚した人々と同じように、誰かの言いなりになってしまうことで自らの意志を放棄することは14世界においてのタブーだ。
ハイデリンが「聞いて、感じて、考えて」と言っていたように、この3つを放棄して他者にゆだねることは、絶望に至りやがて終末を招く行動なのだ。

この失敗ルートをたどった世界が第一世界や第十三世界だけでなく、ほかの霊災で消滅した世界だった。
ではこの破滅を招く行動をどう防ぐのか。

FF14においては「結局他者との信頼関係に終始する」という結論になっている。
これは「あの人がやってくれるだろう」という責任転嫁の話ではない。
「あの人なら、きっと何か糸口をつかむだろう。そのために自分ができることを精一杯するのだ」という協力関係の話をしている。

暁月でハイデリンがエルピスの花をヒカセンに託したのは「この言葉を知れば、きっと彼・彼女は理解してその答えを探しに行くはずだ。方法は理解できなくても、そうするに違いない」と信頼していたからだ。

そうして、ゼロがいうようにこの考えは伝播していく。
一人でダメなら二人で。それでもだめならもっとたくさんの仲間を探せばいい。一人でできなくても、誰かが一緒にいればその願いはかなうかもしれない。叶わなくても、新たな糸口がつかめるかもしれない。
本物のゴルベーザはこのことに気が付いていたが、そばにいたドゥランテや、昔のゼロはそのことに本当の意味では気が付いていなかった。

そうして、その仲間とのつながりは無償の施しだけである必要はない。
ヴァルシャンがゼロから学んだというように「対等であること」もまた重要なことなのだ。

相手のことを知ろうとする丁寧な対話の積み重ねに、ヒカセンの超える力やメモリアという半ば強引な舞台装置が働き(デウス・エクス・マキナ)混在した物語を収束へ向かわせる。

ただの綺麗事だったとしても、こういう物語を描こうとして本当に描いてしまうff14はやっぱり優しい世界なのだと思う。
前向きに、希望を捨てず、仲間と自分の可能性を信じる限りこの世界に絶望は訪れることはないのだ。

異文化コミュニケーション/トラル大陸の場合

ということで、ここまでの物語を考えてみるとやっぱり黄金でもコミュニケーションの話をし続けるんだろうな―と思っている。
そもそも「ヌーメノン大書庫にも記録がほとんどない」土地であるトラルにアルフィノたちが乗り込む理由もコミュニケーション方法についてなのだから、最初から声高にテーマは叫ばれている。

ただし、コミュニケーション方法はトラル式になる。すでにラマチ式の洗礼を受けたのでこりゃあワイルドな感じになりそうだぞーという感想だ。
トラルの人々はどんなコミュニケーションをしているのか?彼らと理解しあうために私はどういう視点で物語を追えばいいのか?
多分この辺を意識していれば、本筋を見失うことはないかなあと信じている。
信用しているぞ~FF14

というか、思えばこの「他者を理解しようとすること、お互いを信頼すること」という精神性こそが黄金のレガシーなんじゃないかな……などとふと思ったりもしている。


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