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【雑記】似た者同士はコンビになりがち

ゼノスが生きている以上、遅かれ早かれヴァリスは殺される運命にあったな、と思っていたがやっぱりそうか〜という納得を持ったまま、漆黒を終えた。

以前こちらの記事で紅蓮4.0時点でのゼノスとヴァリスについて、こんなことを書いた。

ヴァリスがムービーでゼノスのことを「己の快楽を求めすぎる」と表現したのは、自分の息子が自分の世界や生き方を守るためならば、手段を問わないことを理解していたからだ。

ゼノスの欲求(狩り)をヴァリスが満たせなくなればヴァリスはゼノスにとって用済みとなる。つまり、アラミゴの外に出せば当然エオルゼアを攻めつくしてしまい、結果的にゼノスの欲求をヴァリスが満たすことはできなくなるのだ。ここでゼノスが死んだことは、ヴァリスにとって間違いなく幸いだったはずだ。
自らの息子の性質を最も理解しているのは間違いなくヴァリスなのだから、欲求を満たせなくなれば彼に殺されることも考えていたかもしれない。

そういう意味では、ヴァリスはゼノス最大の理解者であるといい方もできる。

「【雑記】ゼノス造形論4.0」より

まさにここの文章に、ゼノスがヴァリスを殺した理由が詰まっていたなーと思っていた。また、ヴァリス自身もゼノスが生きていれば自分が殺されかねないことも自覚していた。

ところが、ゼノスの言葉を聞くとヴァリスが想像していたよりもゼノスの考え方はもっとシンプルだった。
今ゼノスが求めるものは「友(ヒカセン)」だけであり、その「友」を自分以外が害することを許せない。なぜなら「友」は自分の獲物であるからだ……。

ゼノスはまだ狩りごっこに興じている。
ただその方向性がすごく嫌な方向に向きそうだな、と思って恐怖も感じる。彼のヒカセンに対する感情は執着と化していて、他になんの興味も示さないところがゼノスっぽい。
まるでエスメラルダに夢中になっているカジモド…と思ったけど、カジモドもエスメラルダ以外眼中にない!というところまで行かないから困る。フック船長を狙う時計ワニのほうが近いか?

だがそれ以上に気になるのは、ゼノスとファダニエルが一応は協力関係を結んでいるところだ。この二人、全然違うようで「抑圧から解放されたもの同士」という共通点があって面白い。はっちゃけている者同士のとんでも災厄コンビだ。

父なるものからの解放、抑圧を受けるということ

さて、ゼノスとファダニエルに「似たもの同士だね」と言ったら確実に否定されると思う。だがとてもよく似たもの同士だ。
二人は自らを抑圧していた存在から、まさに解放されたもの同士。今や彼らを制するものは何もない。

「いやいや、ゼノスはフリーダムだったじゃん!一体何に抑圧されてた?」というご意見が聞こえてきそうだ。だが彼はちゃんと抑圧されていた。
紅蓮で初めて彼が顔を出すカットシーン。アラミゴ城で神龍を目撃したあとのゼノスはこんなことを話す。

それは、我が父君にして皇帝たるヴァリス陛下が、
未だにエオルゼアへの進軍許可を下さらぬからである。

『紅蓮のリベレーター』カットシーンより

そう、彼はちゃんとここで話をしている。彼を抑圧していたのは他ならぬ父ヴァリスだったのだ。
ヴァリスとゼノスはどうにも親子らしからぬ親子だが、案外ゼノスにとってヴァリスは父なるものとしてきちんと抑圧を与える存在であったらしい。
少なくとも紅蓮の冒頭では、そういう存在としてヴァリスはゼノスの中に存在していたのだ。

また、ファダニエルも「エリディブスはいちいち細かいことばっかり言ってきてマジでウザい」みたいなことを言っている(発言内容がギャルなんだよな)。

ファダニエルはいわゆる転生組のアシエンだ。
オリジナルであるラハブレア、エリディブス、エメトセルクとは違ってクリスタルを手に取って初めて当時の記憶を思い出す?受け継ぐ?らしい(影となったヒュトロダエウスの言葉を信じるならば)。
つまりヒカセンがアゼムの魂を持ちながらも実際にはアゼムではないのと同じように、彼も本来のファダニエルとは全く異なる人間であるということだ。

だから、彼は自分の上司にあたるエリディブスにより抑圧されていた。
彼がやりたいことはできなかったが、エリディブスが消滅したことで初めて己の自由に行動を始める。

つまり逆説的に言えばオリジナル組とヴァリスには共通点がある。
それは「抑圧していた存在がいる」ということだ。
抑圧され、規律を求められていた二人は今となっては完全に開放されたといっていいだろう。

だが実は「規律」とは2種類存在する。
たとえば子供の場合「かばんのなかのお菓子が食べたい」と思う。その時に「夕ご飯が近いから我慢しよう」と考える。これが一般的によく考えられる規律である「ブレーキ機能」だ。
対してもう一つの規律はちょっと違う。2015年や2019年に行われたラグビーワールドカップで大躍進を遂げた日本代表もまた、この躍進の大きなきっかけは「規律」だった。
ここでいう規律はブレーキではないが日本代表チームの勝因として、ほとんど反則を起こさない規律のよさが挙げられるのだそうだ。
つまりハンドルのように、目の前の誘惑(このボールを奪いたい)に抵抗し、ルールの範囲内で冷静にプレイを遂行し、それによって将来的利益(チームの勝利)を選択する力が働いた結果である、ということらしい。

このような、規律ある環境や抑圧された環境から解放された人たちが一体どうなるのかを書いている作品といえばヴィクトール・フランクルの「夜と霧」に詳しい。
ヴィクトール・フランクルは第二次世界大戦中にナチスの強制収容所に収監された。その経験をもとに人生の目的を明確にし、その実現に向けて没頭する心理療法を紹介している……というのがこの本だ(単純に本としての面白さもあるので非常におすすめ)。
そこでフランクルはこんなことを書いている。

特に未成熟な人間が、この心理学的な段階で、相変わらず権力や暴力といった枠組みに囚われた心的態度を見せることがしばしば観察された。
そういう人々は今や解放されたものとして、今度は自分が力と自由を意のままにとことんためらいもなく行使していいのだと履き違えるのだ。

ヴィクトール・E・フランクル「夜と霧」より

「頑張って抑えてきた人」ほど自分勝手になりやすい。それは、心のなかの「抑圧の圧力」が高い状態で、我慢してきた分だけ「もう、私は我慢しなくていい」と勘違いをしてしまうことにより発生するのだという。
ずっと親にお菓子を我慢させられていた子供が、一人暮らしを開始したとたん3食お菓子ばかり食べてしまうのとよく似ている。

つまりファダニエルのはっちゃけ具合や、今のところとどまるところのなさそうなゼノスの行動は、この「もう、私は我慢しなくていい」という感情からくるものなのではないか。さんざん我慢してきたのだから、次は自分がその力を自由に扱える番なのだという考えはまあ間違ってはいないように思える。
だが、別に抑圧のもとでも自由にできたはずだし、実際は自由にしていただろう。それでも彼らを抑圧していたある程度の枷が外れた今、それを止めてくれる人間は誰もいない。

ファダニエルは上司が死んだことで、ゼノスは自分自身が一度死んだことでそのしがらみから互いに解放された。
しがらみから解放された二人の行く末と、ヒカセンたちの旅路がどのように影響を及ぼし合うのか気になって仕方ない。

ゼノスとヒカセンは同類なのか?

目鼻立ちすら確認できない。

ヴァリスがゼノスの手にかかる直前、カットシーンではゼノスの顔が逆光になり、目だけが炯々と光る(すごく好きな表現だ)彼が表れる。
直後、自身がへし折った刀でヴァリスは殺害される。

このシーン、どこかで似た表現をみたなあと思ったのだけれど、「蒼天のイシュガルド」の最後、教皇を倒すときのヒカセンもまったく同じ表現をされている。
教皇を見下ろすヒカセンもまた、顔を真っ黒に塗りつぶされている。

アプデ後なので、耳が透けてる。

当時は「どうしてこんなに恐ろしい表現をするんだろう?」と不思議だった。今でもそう思うのだが、ゼノスがこうした表現をされた今ならこの表現は人間を超えた何かである表現なのだ、と思う。

考えてみると、アシエンたちもその顔に彼らの紋章が浮かぶとその顔は隠れて見えなくなる。
顔の前に紋章が浮かぶかどうかの違いはあるけれど、どちらも顔が見えなくなり、そのために彼らが人間を超えた存在であることを表している…と考えられなくもない。

ずっと煙に巻くような発言ばかりしていたウリエンジェや、自らを偽っていたイダがパパリモを失いリセに戻った時など、自分の顔をあらわにするのは「腹を括ったとき」であることが多い。
ff14という作品においては、基本的にはそういうものであり正体や真意がわからない存在は顔を隠している。しかし、逆に顕になっていた顔が隠れるのは「人ならざるものである」という表現になると思っている。
(つまりこの論法で行くと、アシエンたちが仮面をつけた状態で紋章が浮かんでいたのは「真意が見えない人ならざる存在」ということを示していたということでもあるのかな。)

ただ顔が見えなくなったこのシーンは、どちらも被害者の目線からはそう見えているというシーンだ。
つまり彼らがそういう存在であると自認したわけではなく「自分の理解の及ばぬ存在である」と相手を認識したときに、そういう表現になる…と思ったほうがそれっぽい気がしている。
理解しがたい、自分とは全く違う生き物であると認識した時、人間はその相手を理解することを放棄する。多分自分を守るためなんじゃないかなと思う。

やっぱり「友」「同類」という表現は、共感者が欲しいの言いかえでは

ところでゼノスはヒカセンを「友」と呼び、自分と同類であると表現している。ヒカセンはそのことを否定しているが、ゼノスはしつこくそうだと言い続ける。
だが実際のところ、彼はそういう表現方法しか知らないだけで「自分とヒカセンは同じ目線で物事を見られる対等な存在になりうる人だ」と言いたいのだと思う(と、私は考えているが正しいか)。
今はファダニエルがそばにいるが、彼とはお互いを利用しあう関係でしかないことをよく理解している。ゼノスの周囲にいる人は、大体彼を利用しようという人ばかりで、彼の本質を見ようとする人がいるとはいいがたい。彼に共感してくれる人、或いは彼が共感できる人は、後にも先にもヒカセンくらいしかいないのだ。

つまり、ゼノスは自分が食べておいしいと思ったものをヒカセンにも共有したい。
ところがその気持ちを他者へ共有するすべを、彼は学ぶことができなかった。そのためにヒカセンを追い回し、追い詰め、たがいに命をかけて戦うという方法でしか共有できない。
普通の人間ならば、例えば友人同士になったり、恋人同士になったりする。関係性にはグラデーションが存在し、様々な関係がある。ところがゼノスはその独特なコミュニケーション手段(極厚オブラート)のせいで、友か否かしか存在しない。
彼の世界は常に白か黒かしか無く、そこに該当しないものはいないのと同義だ。

しみじみ気の毒な人だな、とゼノスを見ていると思ってしまう。
彼は本当にコミュニケーションが致命的なまでにへたくそだ。誰も彼に友人との接し方を教えてはくれなかった。自分の気持ちを他者に共有するすべを教えてあげられなかった。
本当に赤ちゃんのまま、周囲の人間に恵まれずに育ってきたのだろう。周囲の人間がゼノスに興味を持たなかったように、ゼノスもまた周囲の人間に興味を持たずに育ってしまった。

とはいえきちんとその方法を教わったところで、彼の本質が大きく変わるわけでもなさそうだ。
正直なところ彼の人生には大きなターニングポイントがいくつかあり、その一つがヒカセンとの出会いだった。そうしてそれより以前のポイントで、たとえ違う選択をしていたとしても、彼は今の彼のままだったと思う。

今後彼が変化するとするならば、ヒカセンがゼノスにめちゃくちゃ怒るか、別の誰かに怒られるかだと思うのだが、ヒカセンに怒られても響かなそうだしな……考えるほど好きなキャラだな、と思うけれど追いかけられるヒカセンはたまったもんじゃないだろうなぁ。
でも個人的には恐ろしくて、しかしかわいくて馬鹿で愚かな男だなと思っている。


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