明治東亰恋伽(試し読み4)

 そう、それが自分の名前だ。もちろん自分の名前くらいわかっている。
 指の隙間からすり抜けていく記憶の中でこの手のひらに唯一残ったもの。皮膚の一部みたいにしっくりと馴染むその響きを、芽衣は嚙みしめるように反芻した。
「ふうん、芽衣ちゃんか。いい名前だね」
 そんな大切な名前を、男は気安い調子で口にする。
 彼は一体何者なのだろう。悪い人ではなさそうな気はしているのだけど、理解不能な言動が多すぎて、どう接していいのかいまひとつよくわからない。
「あなたの名前は?」
 ここは名乗り合うのが礼儀だろう。そう思って尋ねると、
「え?」
 男はきょとんとした様子で目をしばたたかせる。「あなたの名前、知りたいんだけど」
 質問を繰り返すと、彼はしばらく思案した後、なにか思いついたかのように顔を上げた。
「僕の名前は、そう、チャーリーだ」
「チャーリー?」
(なにその、うさんくさい名前・・・・・・)
 人の名前にケチをつけるわけではないが、名乗られたことによってますます怪しさが増したような気がした。その軽薄な響きからして不審な匂いがぷんぷんする。
 警戒心を募らせていく芽衣を横目に、チャーリーはぱちんと指を鳴らした。すると一瞬のうちに、地図のような大きな紙が宙に現れる。
「わ!な、なんですかそれ。魔法っ?」
「はは、違うよ。僕は奇術師だからね、この程度のマジックは朝飯前なのさ」
    歌うような声音で答え、彼は地図に目をこらす。なるほど奇術師と言われて納得した。どこか浮き世離れしたその佇まいは、たとえば一般的な勤め人には醸し出せない独特のものがある。「ええと、ここが日比谷公園だから、と」
「日比谷公園?」
 予想だにしなかった地名が出た。
 東京都千代田区日比谷といえば東京のオフィス街だ。銀座や有楽町や新橋にほど近い大人たちの街といったイメージがあるが、なぜ自分がそんなところにいるのか見当もつかなかった。
「・・・・・・うんうん、ここから歩いてすぐ近くに、いいところがあるじゃないか。路頭に迷って行き倒れ寸前の僕らにピッタリのスポットだよ!実にラッキーだね、芽衣ちゃん」
 地図から顔を上げ、チャーリーはグッと親指を立ててみせた。なにがなんだかよくわからないが、どうやらいまの自分たちは行き倒れてもおかしくない危機的状況にあるらしい。
 チャーリーは手招きしながら軽快に歩き出す。芽衣は一瞬迷ったが、こんなところにひとりで残るわけにもいかず、不審な思いを抱えながらひとまずその後をついて行くことにした。

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