
Netflix「百年の孤独」(シーズン1)人間群像劇とウルスラ・イグアランの願い
1.ガルシア・マルケス独自のマジックリアリズム
以前原作の「百年の孤独」について書いたが、NetfliXで映像化され理解しやすい人間群像劇になり、物語が明確になった。しかし、原作の幻想的な魅力が薄れたように感じた。
そもそも原作のガルシア・マルケス「百年の孤独」の情報量が多く、時間軸は交錯し、登場人物も同じ名前がくりかえし出て来て、複雑な迷宮ののような世界だ。それを一般に言われているマジックリアリズムとして考えると何か違う気がする。
「マジックリアリズム」を検索すると
文学や美術で神話や幻想などの非日常・非現実的できごとを緻密なリアリズムで表現する技法。魔術的リアリズム
しかしガルシア・マルケスのマジックリアリズムは、この説明とは少し違うように思う。
ベースが非日常・非現実的出来事ではなく、現実の中の出来事を人々の記憶に残す伝説や神話にするために幻想的表現を使う。幻想の中に登場人物の隠された感情が表現される。
ガルシア・マルケスの著書の多くを翻訳している木村榮一さんが、本の後書きでガルシア・マルケスのマジックリアリズムを、ルーマニアの村で起った事故から、譚歌(バラード)が生まれる過程を取り上げ、説明していた。
山の妖精に魔法をかけられたひとりの若者が、結婚式の数日前に嫉妬に駆られた妖精の手で岩山のてっぺんから突き落とされる。翌日、牧人たちが木陰に彼の帽子と死体を見つける。彼らが若者の死骸を村まで運ぶと、婚約者だった娘がやってきて、若者の死体を見、神秘的な隠喩に満ちた葬儀の哀歌をうたうという内容で、村の人たちはこれは大昔に起こった出来事だと説明する。ところが、調査を進めていくうちに、その事件はたかだか四十年ほど前に起こった出来事で、婚約者だった女性はまだ生きているということがわかる。その女性に話を聞くと、彼女の婚約者はある晩うっかり足を滑らせて谷底に転落し、大けがをした後亡くなり、葬儀が営まれ、彼女はほかの女性と儀礼的な葬送の歌をうたったが、山の妖精には一言も触れなかったという。
G・ガルシア=マルケス 木村榮一訳・訳者あとがき 岩波書店
ルーマニアの寒村に住む人たちは転落事故による不幸な死と婚約者の深い哀しみを人々の記憶に止めるために『山の妖精』という虚構・幻想を織り込んだ。結婚式前日の婚約者の悲劇的な死は、単なる事故以上のもの。何か神秘的な意味がありそれは神話的表現でしか表せえない。
この『山の妖精』がガルシア・マルケスの嘘、虚構の部分。マルケスは実際に起こった出来事を人々の記憶に残る物語にするために非現実的な要素を加えて神話化する。
そしてもう一つの条件、ルーマニアの寒村や南米の村という非現実的要素である虚構を容認する共同体世界の存在。
日本で言えば、アイヌのカムイユカㇻ、東北の遠野物語、沖縄の琉球文学や琉歌などな時代を超え、その土地に残る神秘的な物語と世界。

2.登場人物たちの実在感と1850年~1950年のコロンビアの現実
ガルシア・マルケス独自のマジックリアリズムを映像化するには、まずマルケスが題材にした、100年以上前のコロンビアの村の現実の世界を描く事がベースになる。
メイキングを見ると、監督、プロダクションデザイナー、衣装デザイナーをはじめ、全てのスタッフ、キャストが1850年から1950年のコロンビアの架空の村マコンドとその村に暮らす人々をいかにリアルに作り、その実在感を表現するかで苦労している。
監督:ラウラ・モーラ(456話)は、
「この作家(ガルシア・マルケス)の美しさは、世界の起原を南米から作ろうとすることにある。中南米の複雑さを備えながら、人生に意味を与える詩的な世界観と言える。私の作品にも深い影響を与えた。コロンビアとカリブ海の歴史的な背景や政治的背景を私は多く参照してきた」
彼女は歴史的な事件や出来事、政治背景を参照した上で、1850年から1950年のコロンビアの記憶に残したい出来事(現実)を、原作のように詩的に表現する事を目指す。
「百年の孤独」の監督:ラウラ・モーラと撮影監督:パウロ・ペレスはNetfliX連続ドラマ「グリーン・フロンティア」でアマゾンの密林を舞台に謎の連続殺人事件とアマゾンの密林に住む先住民族の秘密を描いたマジックリアリズムのサスペンス・ミステリーを制作している。
衣装デザインのキャサリン・ロドリゲスも徹底的な調査を元に仕事をする。
「マコンドは作者の想像が生んだ町ですが、カリブ海の現実が反映されている。徹底的な調査によりマコンドの人々の姿を作り上げました」
「コロンビアの歴史を遡って登場人物のコンセプトを考えます。理論上「百年の孤独」は1850年から1950年の物語です。またブエンディア家は中流階級と理解しています。つまり大富豪ではないのです」
単なる空想の人物ではなく、徹底したリサーチの元で1850年から1950年代の生きた人物像を作り上げている。

登場人物にリアルな存在感が与えられた事で、ブエンディア家の錬金術に夢中になる初代ホセ・アルカディオと放浪癖があり入れ墨のホセ・アルカディオ(2世代)、後にマコンド村の残忍な町長兼司令官となる小太りのアルカディオ(3世代)の区別は見ればわかるので、原作を読んでいる時の混乱がない。
それぞれの性格から人物像が視覚的に表現されその背景や人間関係も明確になっている。すると登場人物が私たちと同じ身近な存在になり感情移入できる。まさか「百年の孤独」が感情移入できる連続ドラマになるとは想像もしていなかった。
時間の流れはあくまで直線的で、原作のように時間軸が錯綜しないので理解しやすい。

原作ではあまり注目していなかった脇役の町長のモスコテ、占い師のピラル・テルネーラ、自動ピアノ調律師ピエトロ・クレスピ、祖母に売春を強いられる幼いエレンディラの複雑な感情と深い哀しみも感じる事ができた。

ピエトロ・クレスピ、レベーカ、ホセ・アルカディオ、アマランタ

アウレリャノ大佐、ウルスラ、レメディオスの母、町長モスコテ
3.マコンド村の現実と現代社会の共鳴
ドラマ「百年の孤独」の巨大な架空の村マコンドと登場人物に顔と生命が与えられると、幻想に包まれていた原作「百年の孤独」の世界から当時のコロンビアの村のリアルな生活が鮮明に見えてきた。鮮明に見える事で、読者として想像していた原作の持つ幻想的な世界は私の中で薄れた。
たとえば初代ホセ・アルカディオが殺したアギラルの亡霊もアルカディオの罪悪感から生まれた幻影のように見えた。
原作で魅力的に見えたメルキアデスの錬金術もただの磁石や巨大虫メガネの実験に見えた。
錬金術に心奪われたホセ・アルカディオは磁石で金の採取と巨大虫眼鏡で武器製造に夢中になる滑稽な男に見えた。
ウルスラのまたいとこというレベーカの登場も、原作を読んでいた時は、膚の白い絶世の美女だと思っていた。しかし現れたのは肌の黒い野生的な獣のように土を食べるレベーカ。
レベーカは最初、先住民族のインディオの言葉しかわからない。きっと先住民族がヨーロッパ人に奴隷として雇われ、その雇い主との間に生まれたであろうレベーカの背景が見えてくる。
すると、アマランタのレベーカへの嫉妬は単なる嫉妬だけでなく先住民族への偏見や排除を含む悪意も含まれているように感じる。
原作では理解出来なかった、自動ピアノ調律師のピエトロから入れ墨だらけの先住民族のようなホセ・アルカディオへのレベーカの心変わりも、自然と理解出来た。

その後の伝染病、村全体を襲う謎の不眠症と健忘症も、コロナウィルスのパンデミックを経験した後では感染後の睡眠障害や記憶障害に見えた。
そのパンデミックの後、自由な村マコンドに政府の介入が始まる。政府から派遣されたモスコテ町長の「家の壁を青色に塗れ」の強引な支配。
緊急事態宣言後から、国の軍隊の村への支配が強まる。民主的選挙と言いながら、モスコテ町長の選挙での不正行為。それを目の当たりにする正義感の強いアウレリャノ。
インテリの医師から村のゲリラ活動が始まり革命軍が結成され、村を舞台に多くの人々が殺害される悲惨な戦争へと変化していく。
ドラマ「百年の孤独」は、原作とは逆に現実的なリアルな弱い人間が止まる事のない欲望に捉えられ神のように人間を支配し破滅に導く寓話的ドラマのように感じた。
最初に映像化で、原作の幻想性が薄れたと言ったが、それは作り手が明らかに文学と映像表現の違いを意識し、文学とは違う方法でリスペクトを持って映像化しているからだと感じた。

4.人類の悲劇とウルスラ・イグアランの願い
私がドラマ化で印象に残ったのは、マコンド村の中心で一人力強く生きるウルスラの存在だ。
ウルスラのまたいとこと言い、突然現れた得体の知れない混血のレベーカを何の偏見も疑いもなくウルスラは受け入れる。そして実の娘アマランタと同じように愛情を持って育てる。
ウルスラは、夫ホセ・アルカディオと対立する町長モスコテ一家とも何のわだかまりもなく付き合い、息子アウレリャノとレメディオスの結婚を進める。
男たちは、ある者は錬金術を使って自らの欲望の金や武器を作り出す。ある者は神の名を使って、あるいは正義を掲げ、権力を手にし多くの命を奪う。世界を支配しようと神たらんとする男たちは、必ず破滅へと向かう。
映像化された「百年の孤独」は人類の愚かさに警告を与え、人間同士の真のつながりと生活を求める女性たちの戦いのドラマのように思えた。
ジェンダー平等の実現が求められる現代とウルスラが願ったマコンド村の姿が重なる。
それはガルシア・マルケス自身がノーベル文学賞授賞式のスピーチで語った「百年の孤独」の世界とは全く逆のユートピア。
そこではどういう死に方をするかを他人に決められることもなければ、愛が確実なものになり、人が幸福になる可能性が失われることもなく、百年の孤独を運命づけられた一族の者がようやく、かつ永遠に地上に二度目の生を営むことのできる機会が与えられる、そのようなユートピアなのです。
G・ガルシア=マルケス 木村榮一訳
人類が地球資源の利権や権力で争い、殺し合う事がなく、全ての人の命と生活が守られ平等で女性や子供たちが安心して暮らせる社会。
そんな当たり前の社会を私たちは今も作る事が出来ないでいる。その事に気づかされたドラマ「百年の孤独」(シーズン1)だった。

以前の「百年の孤独」に関する記事です。