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宮沢賢治の童話「どんぐりと山猫」に学ぶ、想像力を引き出す表現(後半)
1.観察し描写し、想像させ、裏切る、深く豊かな人物描写
宮沢賢治の童話「どんぐりと山猫」に学ぶ、想像力を引き出す表現の後半。前回は、かねた一郎の所に、山猫からめんどうな裁判のハガキが来て、翌朝出かけ、栗の木、笛吹きの滝、きのこ、りすに山猫の行方を尋ねて歩き、黄金いろの草地で、馬車別当に出会うまでを解説した。
私は前半部の宮沢賢治が映画監督のように映像を見せる手腕に驚いた。
家から出たかねた一郎、ロングショットの広大な山から、栗の木、落ちる栗の実へとアップショットへ。笛を吹く滝から谷へ、地面の白いきのこたちの楽団の演奏と木の梢の栗鼠へと、高低差のある視点を、まるでドローンの流れるような映像で見せていく文章表現。
見事な視覚表現と独特のオノマトペ、音声表現が加わり、立体的に大スクリーンで、自分の童話世界へ導いていく。
今回は、その後、一郎が山猫の※馬車別当に出会う場面から、人物描写、行動描写、会話描写から最後のアンチクライマックスをみていく。
※別当:馬を飼ったり、乗馬の口取りをする人。
その草地のまん中に、せいの低いおかしな形の男が、膝を曲げて手に革鞭をもって、だまってこっちをみていたのです。
一郎はだんだんそばへ行って、びっくりして立ちどまってしまいました。 その男は、片眼で、見えない方の眼は、白くびくびくうごき、上着のような半纏のようなへんなものを着て、だいいち足が、ひどくまがって山羊のよう、ことにそのあしさきときたら、ごはんをもるへらのかたちだったのです。一郎は気味が悪かったのですが、なるべく落ちついてたずねました。
「あなたは山猫をしりませんか。」
賢治はここでもおかしな男を視覚的に丁寧に人物描写する事で、読者の想像力を刺激し、独自の人物像が現れるよう導く。
かねた一郎がびっくりしたように、私は、この異様な男を不安と恐怖を持って想像した。しかし賢治は、次の会話描写と行動描写で、一瞬にして感情の豊かな人間味あふれる人物に変える。
男と一郎の感情の変化が的確に表現され、関係が一気に親密になるのが、面白い。
「そんだら、はがき見だべ。」
「見ました。それで来たんです。」
「あのぶんしょうは、ずいぶん下手だべ。」と男は下をむいてかなしそうに言いました。一郎はきのどくになって、
「さあ、なかなか、ぶんしょうがうまいようでしたよ。」
と言いますと、男はよろこんで、息をはあはあして、耳のあたりまでまっ赤になり、きもののえりをひろげて、風をからだに入れながら、
「あの字もなかなかうまいか。」とききました。一郎は、おもわず笑いだしながら、へんじしました。
「うまいですね。五年生だってあのくらいには書けないでしょう。」
すると男は、急にまたいやな顔をしました。
「五年生っていうのは、尋常五年生だべ。」その声が、あんまり力なくあわれに聞えましたので、一郎はあわてて言いました。
「いいえ、大学校の五年生ですよ。」
すると、男はまたよろこんで、まるで、顔じゅう口のようにして、にたにたにたにた笑って叫びました。
「あのはがきはわしが書いたのだよ。」
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2.既成の価値観を壊す道化(トリック・スター)であること
井上ひさし著「宮澤賢治に聞く」の中での講演記録『道化の人』を読むと、賢治は少年時代「犬が怖くて遠回り」していたとか、中学時代、友人の証言によると「小鳥のようないい声でよく歌っていた」「色白で背は高くなく、猫背で、がにまた、運動音痴」とか「歩き方は左肩を極端に上げ、右手を大きく振る」とか「含み声で『おっほっほ』で笑う」とか、かなりの「変人」だったらしい。賢治の友人が語る見た目も行動も「変人」だけどピュアな馬車別当に似ている。
宮澤清六著「兄のトランク」のエッセイでは「兄弟で映画が好きで、特にチャールズ・チャップリンが好きだった」という話もある。
賢治はわざと「道化(トリック・スター)」を演じ、既成の価値観を壊すように行動し、表現していたように思える。
農林高校の先生をしていても、教科書を無視して、個人の体験を重視し、生徒個別の想像力を喚起して、抽象化して、推論させる。まるでこの童話の作り方と同じクリエイティブな教育方法。
私が勝手に芸能人でイメージすると、破天荒で、頭も切れるが世界的映画監督の多彩なお笑い芸人、北野武。コント、芝居、役者、エッセイも書ける多彩なミュージシャン、星野源。CMの神木隆之介が演じるコーラス部で「アヴェ・マリア」のためにラテン語を習い、裸足で歌う「意識高すぎ!高杉くん」のような変わった人間味あふれる人物像が浮かび上がってくる。
3.葛藤を抱え込むアンチクライマックスと切ない余韻
そしてとうとう山猫が、風の又三郎のように、風が「どう」と吹いて、草はいちめん波だち、黄色の陣羽織を着て現れる。
陣羽織とは、武士が陣中で甲冑の上に羽織った上着。武士から奪ったのかと、ここでも一枚の上着が、読者の想像力を刺激する。
で、本題、どんぐりとのめんどうな裁判は、というと。
「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。」山ねこが、すこし心配そうに、それでもむりに威張って言いますと、どんぐりどもは口々に叫びました。
「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。」
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。」
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。」
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。」
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。」
「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」もうみんな、がやがやがやがや言って、なにがなんだか、まるで蜂の巣をつっついたようで、わけがわからなくなりました。そこでやまねこが叫びました。
「やかましい。ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ。」
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ここまで、この童話を読んで来て、いよいよクライマックス。
この童話の本題、めんどうな裁判が、どんぐりたちの自分勝手な表層的な争いごとのくだらなさに呆れてしまう。
賢治はここで、今までの丁寧な描写を放棄して、セリフだけ、オノマトペも「がやがやがやがや」だけ。いかに宮沢賢治がこの裁判、この争いのくだらなさに辟易しているのかがわかる。
そして、かねた一郎の助言も、お説教からの引用で解決する…。
一郎はわらってこたえました。
「そんなら、こう言いわたしたらいいでしょう。このなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらいとね。ぼくお説教できいたんです。」
この「誰の事も軽んじないデクノボー精神」は「雨ニモマケズ」で賢治が「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と念じた
法華経の※常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)の事だという。
常不軽菩薩:『法華経』常不軽菩薩品第二十に登場する菩薩である。彼は人をみると「私はあなた方を尊敬して決して軽くみることはしない。あなた方はみな修行して仏陀となる人々だから」と言い、人々にはずかしめられ打たれると、その場を逃げ、離れた場所から再び同じ言葉を繰返したという。
(中略)法華経に説かれる菩薩で、釈尊の前世の姿であったとされる。
たしかに大切で心に響く教えではあるが、正直、現実的に考えると、心にストンと落ちず、もやもやする。宗教家・宮沢賢治のお説教を聞いても…と思ってしまう。それは、どんぐりたちも同じで…。
どんぐりは、しいんとしてしまいました。それはそれはしいんとして、堅まってしまいました。
ここで、そもそもなぜ「どんぐりと山猫」なのか?
宮沢賢治の別の側面から想像してみる。
賢治は単に自然を観察していても、空を見上げれば天文学、地面を歩けば、地質学、土壌学の知識から、たとえば北上川を眺め、白亜紀の海岸を想像し、イギリス海岸と名付け、世界観が簡単に時空を超え、宇宙に広がる。
そんな科学者の視点で「どんぐりと山猫」を考えると、賢治の童話の世界には仏教だけでなく、アイヌ文化や琉球文化と同じ縄文時代のアニミズムの世界が現れる。
特に北海道と東北北部は縄文時代の遺跡群や土器が多数発見されている。
「どんぐり」は縄文人にとって大切な食糧。
5000年以上前に絶滅したオオヤマネコの骨も縄文時代の遺跡から数多く発見されている食糧。この童話集「注文の多い料理店」は、山猫軒で、やまねこが、猟に来た男たちを逆に料理し、食べようとする話。
「どんぐりと山猫」はこの童話集の最初の話であり、童話集全体の大きなテーマとつながっている。賢治の童話は全て、単純にクライマックスで葛藤が浄化され、オチや結末を迎える物語ではなく、腑に落ちない謎を含み葛藤や問題を明らかにする物語のように思う。だから当然、一般受けしない。
食糧であるどんぐりに外見的差異をみつけ価値を付加していく。
もしかしたら、どんぐりの争いは縄文時代の古代人の中にもあったかもしれない。この事を現代にリンクして考えると、見た目が良く大きなどんぐりは讃えられ、その価値からはずれる「めちゃくちゃでまるでなっていない」どんぐりは排除され、捨てられる。
どんぐりたちは、常に他のどんぐりと比較されるストレスの中で、排除され捨てられる不安と恐怖を抱え、他者を監視し、比較し、攻撃も厭わない。
終わらないどんぐりたちの争いは、古代からこの世界に流れる差別、偏見、攻撃、排除の悪循環の暗喩のように思えてしまう。
だから、このめんどうな裁判が、かねた一郎の助言で簡単に解決したとは思えない。思えないが宗教家・賢治はその言葉の力を信じている。
果たして、どんぐりたちの争いは本当に収まったのだろうか?
山猫がハガキの文句を「かねた一郎 裁判所 用事これにありに付き、明日出頭すべし」と書いてはどうか?と提案するが、笑って否定し「変ですね。そいつだけはやめた方がいいでしょう」と意見する。
それからあと、山ねこ拝というはがきは、もうきませんでした。やっぱり、出頭すべしと書いてもいいと言えばよかったと一郎はときどき思うのです。
なぜ、山ねこから二度とはがきはこなかったのか?
私は、はがきの文句を否定した事ではない気がする。
最後の一文に、かねた一郎の後悔がにじむ。
よって賢治の「どんぐりと山猫」のアンチクライマックスは、解決したように見えて、腑に落ちない、どこか切ない余韻を残す。
読者は、賢治と共に童話とは違う「争いの絶えない現実」を見つめ、その葛藤を引き受ける事になる。
どんなに頑張っても、何一つ変わらない現実に肩を落とし、歯ぎしりし、それでも歩き続ける賢治に私は深く共感し、賢治のように、最後までドタバタと道化のように強く生きたいと思う。
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