徒手療法を身につけるのに必要なリソースは何か
今から15年ほど前に放送大学を受講したことがある。
教材が送られてきて、動画を見る。そして期日までにレポートを仕上げる。
そういった形の授業だったと思う。所定の科目を履修すれば単位が認められるのだが、当時は修了証が届かないまま期限切れになってしまった。
それが今や、オンラインで学習ができ、リモートワークが可能な時代になった。この時代において、徒手療法を学ぶのに必要なリソースは何か、について考えてみたい。
「3年待っても正師につけ」という師匠の言葉
私が正式にこの道に入ったのは、指圧の学校がスタート地点だった。いまでははるか昔のことのように思う。
当時の師匠に言われたのが見出しにもある「3年待っても正師につけ」という言葉。
技術は一生もの。自分を高めていくには腕のよい先生を探して、その人を師と仰ぎなさい、という意味だ。今となっては、それを自分の口から言うのもどうなの?とたまに思うことがある。
しかし、それを差し置いても指圧の師匠の影響は大きかった。
なぜなら、その師は私にとって最初の師匠だったからだ。初めてということはクセがついていないということだ。もし仮に、最初に出会った師匠に生涯、師事することになったとしたら、それはとても僥倖な出会いだと思う。
私の場合はその後、何人かの治療家の方を師と仰ぐようになる。
なかなか出会えないような先生からも指導を受けられたことはそれはそれで運がいいのだと感じている。
それはさておき、徒手療法を身につけるうえで最も必要なリソースは師と仰ぐ存在。それは学校の先生だったり、非常勤の講師だったり、セミナーで出会った治療家だったりする。
とにもかくにも、真っ白な半紙に墨をのせるように、学んだことがそのまま自分の技術になっていくと考えている。
あなたの学んでいることは、必要十分ですか?
指圧を学んでいるときは、それがすべてだった。
いま、付き合っている彼氏が最高!そんなふうに錯覚すらしていた節がある。そして、それは教育の一面だと後から気が付いた。教育は洗脳と紙一重。
むしろそうでなければ技術をモノにできないし、夢中になって取り組むからこそ体得できる【何か】がそこにはある。
ある種、狂気じみていると言ってもいい。これは私が経験したことをベースに記しているので、徒手療法をしている人が全員、そうではない。念のため。
徒手療法のことを話題にしているのだが、仮にそれは格闘技でも料理でも、華道や茶道といったお稽古ごとでもいい。
ひとりの師に師事して、学びを得るとき。
そこには体系化されたカリキュラムが必要になる。かつては見て盗めだったが、今は時代が違う。
基本となる理論やテクニックを記したテキストがあれば最高だ。それは学習者のためでもあり、指導する講師のためでもある。
そこには共通言語が必要だし、基礎から応用まで発展していく統一された理論や手技があるはずだ。
反対に、あまた見られるセミナーや自称治療家のYouTube動画の類は、その人の一部分を切り取った【切り身】。それは決して、頭から尻尾までまるごとそろった魚の形をしていない。
切り身を提供している、その人が悪いわけでもない。
私自身も講師を務めるので身に覚えがあるのだが、限られた時間や環境のなかでリアルにすべてを伝えるということが不可能なのだ。
そういう意味では、体系化されたカリキュラムやテキストがあれば最高なのだが、一方でそれは【切り身】であることを覚えておいたほうがいい。
仲間がいることの意味について考える
師匠とカリキュラム、に続くのは「仲間」
それも一緒に成長していく仲間。こう書くと、スラムダンクのような友情、成長、勝利というキーワードがついてきそうだが、私はそれは嫌いじゃない。
なので、自分の成長のために仲間はいらないという方もいると思うし、それはそれでいいと思う。
ひとつ言えるのは、技術を習う、受け継ぐ、次に伝えるというのは縦の系譜。そして、もう一方で横のつながり=仲間が必要と私は感じる。なぜなら、ヒトが一人でできることには限りがあるからだ。
おなじことを習っても、AさんとBさんでは理解のスピードが違ったり、受け取り方が異なる場合がある。そこを擦り合わせていくことで技術に厚みが出る。
自分がつまづいた時には、そばにいてサポートしてくれることもあるだろう。そういう意味では同期の仲間や先輩、後輩といった関係性があるほうが徒手療法そのものにとっても確実に継承されていくことが担保されるに違いない。
人間が違えば、おなじことを学んでも理解が違うことがある。
理解の相違は、時代という時間軸を超えても起こりうることだろう。社会的な変化が起こったり、新しい技術が開発されたり、言葉そのものが古くなることもある。
変化は内輪だけではなく、世界という外側でも起こる。
だからこそ、2種類の仲間が必要だと感じている。内輪の仲間だけでつるんでいると進歩しないことがある。自分とは異質の仲間、そこから得られる情報を知ることで、アップデートを図る。そのように刺激しあえる仲間がいてもいいのではないか。
自分の色を打ち出すには、世界観が必要
指圧の師についていた私はある時、気がついた。
「あ、自分はこの先生にはなれないや」と。
理由はシンプルで、生まれ育った環境も時代も違う。
家族関係も人とのつながりも違う。もちろん、体格も違う。
冷静になれば当たり前の話なのだが、初めての恋は盲目なように、初学者は(私もあの先生のようになりたい)と思い込んでしまう。
それはそれでいいと思う。
教育は洗脳と紙一重と記した通り、クセのついていない私が無心になって、そして夢中で取り組むことでこそ、得られるものがあるからだ。
その時期は、古くから言われる3つの段階「守」に相当する。
守破離の「破」や「離」に至るには、基礎からの脱却を試みなくてなならない。
余談だが、ひたすら「守」に徹することで職業としての徒手療法を全うすることもできる。この道、ひと筋な感じはカッコいいと思う。
しかし、師匠と全くおなじになれないと気付いた時に、どうやって自分の色を打ち出していけばいいのかと悩んだ時期があった。
所詮、私は師匠の二番煎じ、三番煎じ、いや出がらしじゃないのか…と。
決してそんなことはないのだが、職人として道を究めたいと志す人は一度はそう感じたことがあるに違いない。師匠を超えると公言していた仲間もいたのを思い出す。
徒手療法に限らず、何かを身につけたい、道を究めたいと思う人は最終的に【自分らしく】あることに行きつくのではないか。
格闘技しかり、料理もしかり、華道や茶道などのお稽古ごとは言うまでもない。
自分の色を打ち出す、それは表現の究極のかたち。
そのためには、一つに没頭することと、異質な世界を知ることの両面が必要だと思っている。私と異世界の隙間にある何かに違和感を感じるだろうし、そこに立ち返って「私」が何ものかに気付くことができる。
私の色を打ち出せたら「一人前」と呼んでもいいんじゃないかな。
この記事が参加している募集
physical, mental, spiritual and social well-beingに生きるお手伝いをしています。2020.3に独立開業しました。家族を大切にし、一人ひとりが生き生きと人生を楽しめる社会が訪れるといいなと思いながら綴っています。