読書記録2024/12/17
いとうせいこうの『親愛なる』を読み終えて、感銘を受けたのでその勢いで『ノーライフキング』も読み切ってしまった。
『親愛なる』は紆余曲折を経た作品であるらしいことがあとがきに書いてあったが、要は十年前に単行本としてオンデマンド本で出て、そのリヴァイヴァルとしての文庫化が今年行われた、ということ。
さらにその原稿はメールマガジンがさかんな時に読者一人一人に本当にメールで送られたものだというから、だいたい三回の転機をこえた小説だということらしい。
この作品は、自分の個人情報を入れると、その名前、住所、メールアドレス、電話番号が、本文に使用されることになる。
これくらいであれば、凝った技術は必要だとはいえ、まだ人の思いつくところだろう。だが、それがどういうことなのか、どういう効果を生み出すことが出来るのか。振り返った上で書かれた本作は、「わかっている」つもりで読んでいながら、いつの間にかまさに今ここにいる自分自身が、解体されるかのような感覚を、錯覚だとしても、呼び起こすこととなった。
この小説は、何かしらデジタルな形で配信するというのがいとうせいこうのイメージだったというが、編集の意見で、あくまで紙で出版するのだと決まったらしい。データの中で、たとえば自分の名前を見たとして、登記されたもの以上の感慨が沸くかは微妙な気がする。だから、紙に既に印刷されているというのは、また一つ違和感というか何か変なことが起きているという感覚を生み出すことに寄与している。このことは成功だった。
『スイート・オブ・東京ブロンクス』にも『解体屋外伝』にも使われている、これはアンセムといっていいだろう、聞き慣れたフレーズが、『親愛なる』にも使われている。ふつう、こういうことはしない。なんだかんだ言っても、ひとつの小説、とくにシリーズなどではなく一つの作品として完結している場合、名場面を何度も使うということはしない、避けられる。だが、こうしていろんな文脈に、この抽象的だが染み渡る言葉をいわばかざすことは、言葉と作品全体を相互に高めることになる。しかもそれは書かれたものと歌われたことと区別がない。今まで感じたことのない作品の「開け」を、僕は感じた。
『ノーライフキング』を書き出した時、次の作品名は決まっていると言っていた、それは『ノーライフキング』に導かれるようにして書かれるだろう、とでもいった具合だった。あの作品からして、既に、しかもなぜかまだ書かれていない次の小説に対して開かれていたし、テーマはいつだって同じなのだ、じつは。何というと実につまらないけれども、それをこの年月かけて何度も変奏する、何かまずければ形式も顧みて様々なことをやる、その事に本質があるに違いない。