「平穏の果てに」の考察
初めに
先日EXIT兼近がnoteに公開した短編小説「平穏の果てに」について私的考察をしてみたい。(前提として私はEXIT兼近のファンを公言しているので、若干贔屓目で見ていることはお忘れなく)
兼近の作品はこちら チャラ男の小説もどき|かねちー @kanechi_monster #note https://note.com/kanechika_daiki/n/n849640f3a5f3
さて、この「平穏の果てに」。ぱっと読んだときはディストピア感の強い作品ではあるが、根本は本人の恋愛について書かれていると推測できる。この点については他の方も多く語ってくれているので、そちらを参考にしてほしい。
私が述べたいのは3点。
視点の使い方と、無限ループ、肉体の存在についてである。
視点の使い方
まず視点の使い方についてだが、この小説は最初と最後が第三者視点、それ以外が主人公視点になっていることが特徴であると感じる。第三者的視点だけでは、全くリアリティのない無機質な作品になってしまうし、主人公視点だけではただの作り話になってしまうのだが、上手く両者を使い分けて、登場人物や設定をより立体的にしているのだ。初めに第三者視点から語り出すことで、「僕」という人物が「存在」することを印象付ける。そして僕視点で「君」を語ることで「君」という人物の儚さや、僕が作り出した架空の人物である可能性を生みだす。そして仮想を現実だと捉え始めた読者を、再び第三者視点で締めくくることで本当の現実へ引き戻す。
普段本とチャラついている、と本人が言っているだけあり、多くの本から無意識に吸収した技であろう。これによって、読者は現実と仮想を行き来し、短い作品ではあるが、心地よい読了感も生まれる。
無限ループ
次に、無限ループである。
この設定はよく使われる。夢だと思って目が覚めた、というのも夢の中の出来事で、そう思ったのもまた夢の中の出来事·····というように合わせ鏡のようにまた同じ時間を繰り返す。ただ、これが使われる設定としては、同じ時間を繰り返す恐怖を描くときが多いのではないだろうか。
しかし兼近の描くこれは「僕の幸せ」なのである。
本人が10年以上片思いを続けているのは、ジッターであれば周知の事実だ。そしてこの小説がその恋愛について書いているのではないか、というのが多くのジッターの考察であり、例に漏れず私もそれに賛同する。それを踏まえると、バーチャルの世界でのみ会っていた君に、現実で会おうといわれ会いに行きキスをする、そこで機械の電源を落とす、つまり「現実の君(だと思っている)」にキスをするところも含めて、これはバーチャルなのだ。
ただ、これは時空の歪みに入り込んでしまった恐怖のストーリーではない。
僕は自ら機械の電源を入れて今日を始め、そして自ら電源を落として今日を終える。つまり大好きな君との一番幸せな時のディスク(記憶)を毎日毎日繰り返すのだ。
毎日君と出会いキスをする。
ただこのディスクは幸せだけではなく、百年という長い月日も共に収録されているため、僕は毎日百年間君に胸を焦がす。
百年の恋は甘く切ない。この気持ちはきっと長い片思いを続けている兼近本人の気持ちであろうと察する。
肉体の存在
そして最後に、ここまで本人が考えているかは分からないが、文中やたらと身体の動きについての描写が多い。それは逆に「僕」はすでに肉体を持たず、実際に身体を動かすということが不可能であるために、より肉体の動きに固執しているのではないだろうか。つまり、「僕」は「脳」単体でしか存在していないのではないか。
実際今の技術では到底百年以上老化せずに肉体を保つ科学的技術は存在しない。もしかしたら百年後の未来なら、という考えもできるが、衰える肉体の成長を止めることよりも、脳だけで生きる方がむしろ現実的だと思う。
脳だけで数百年存在し続ける世界。
流行病や老化などに侵されない、究極の平穏の果て。特に見た目の良さのせいで芸人としての足枷を感じる兼近は、無意識のうちに外側(肉体)ではなく、内側(脳)の承認欲求を強く持っているのではないかと考える。
最後に
私の考察は以上である。特別文学や深層心理について造詣が深いわけではないので、根拠などについてはつっこまないでほしい。ただ、小説というのはいくらフィクションであれ、自分自身の中から生みだす限り、内面や経験が色濃く現れるものである。それが処女作であれば余計に。
推しの内面を垣間見てしまうのは、ファンにとってそれこそパンドラの箱を開けるようなものだ。この小説を読めば読むほど、兼近には幸せであってほしいと願わざるを得ない。
きなこ