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努力が機会につながる。能力主義でなく。 「無題抄」 上村松園 を読んで。(青空文庫コラム)
(あらすじ)
絵以外は、私(松園)には余技であり、とくに熱中する気にはなれない。
しかし、優れた才能のある人は、その余技においてもずば抜けている。
芸術は、自分の力の及ぶ限りをし、あとは神仏のお力にすがる。
機会はうっかりすると逃げ出してしまう。
機会を掴むのにも、不断の努力と精進が必要である。
(感想)
荘園は余技のことを考えたとき、絵の弟子である、九条武子夫人を思い出します。京都女子大学を設立した教育者であり、歌人、画家、社会運動の活動もしていたかたです。どれもレベルが最高度に高く、何が余技なのかわからない、松園はそれで、才能ある人は余技も素晴らしいと言ったのかもしれない。
その武子夫人の書いたご本「無憂華」の一句を松園はこのご作品に引きます。
大いなるものの力にひかれてゆく
わが足もとの覚つかなしや
これは、どんなに努力しても、結果は大いなる力に左右され、いつでも覚つかないものだ、というふうに解釈されると思います。
なぜなら。
松園は、この続きに、誰にでも天の啓示(機会)は差し出されているのだけど、それは、然るべき努力をしてきたものだけがものにできるとも書いています。が、それから、人は努力を惜しむから何事もならないのだし、結局最後は、天地の大いなる力が、その人を助けることになる、とも書き連ねているのだからです。
以下、上村松園がどういう姿勢で努力を貫いてきたのか。それから、たとえば、彼女の機会と努力の哲学は、脳科学者の茂木健一郎先生の語られたこととも、つながり、そのことに言及してみます(学術的なことはこのコラムには書いていません)。
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