歌集を買って読む
短歌って面白い。
それに気が付いたのは、枡野浩一を読んでからだった。
ハッピーロンリーウォーリーソングと題された文庫本を、ごくなんとなく買ったのだ。
真っ白な表紙にそっけない手書きで、タイトルと作者名だけが書かれている。本を傾けて小口を眺めると、カラフルな色紙で本文が構成されているのが分かる。パラパラとめくると、見開きに一行だけの短歌と、なんてことない風景の写真が載っている。
この一冊に、しびれた。
枡野浩一は、きわめて平明かつリズミカルなことばで、なにげない感傷を的確に切り抜いてみせる。
語るも野暮だ。
いくつか実例を引用させて頂く。
「じゃあまた」と笑顔で別れ五秒後に真顔に戻るための筋肉
気づくとは傷つくことだ 刺青のごとく言葉を胸に刻んで
書くことは呼吸だだからいつだってただただ呼吸困難だった
ビクビクと食うな畜生 ゴミ置き場なんかジャンジャン散らかして食え
こんなにもふざけたきょうがある以上どんなあすでもありうるだろう
分かりにくいところはまるでない。
ぼくたちの日常で使うようなことばで、日常で抱くような感覚を、フレームに収める。その、写真家のような技術に、すごい、と息を呑んだ。
短歌というものは、こういうことができるのか。
とっくの昔に、滅びたジャンルだとばかり思っていた。
国語の教科書で俵万智ぐらいは学んでいたけれど、あれが最後の徒花だったんだろうなどと、勝手にひとり決めしていた。
大間違いだった。
ぼくは枡野浩一を皮切りに、穂村弘などを読み進めていった。
ハロー 夜。 ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。
目覚めたら息まっしろで、これはもう、ほんかくてきよ、ほんかくてき
恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死
サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい
短歌を読みはじめると、まあ、じぶんでも詠んでみたくなるものだ。
ぼくはすこしずつ短歌をつくっては、Evernoteのなかに放り込んでいた。いまになって読みかえすと、あまりにも上記のふたりに影響を受けすぎていて、はずかしい。ちょっと公開はできない。
でも、たのしかった。
それまでは、小説やエッセイという媒体しかぼくは持ち合わせていなかったから、これぐらい短いもので表現ができるというのは、新鮮だった。
何年か、ぼくは短歌をつくりつづけた。
何ヶ月かに一度、思い出したように何本かをつくり、数日間それをくりかえす。そしてまた、忘れる。そういう距離感だった。
短歌というのはどうやら、読むこととつくることの距離が近いようだ。
ふとインターネットを見てみると、そこには多くの作り手がいた。偶然短歌やBL短歌というものにも出会った。
とくに後者からは、おおくの刺激を受けた。
二十四の夏に燃え落つ親不孝お許し下さいこんなに至福 (みきぽ)
そうでしたこれはさみしい夢でした僕をおろして明るい車両 (穂崎円)
きもちいいことをしようよ、繰り返し死ぬため生まれた歩兵〔ポーン〕の反抗 (なつぺそ)
たかが神、落として緑 にんげんがにんげんにするように愛せよ (山中千瀬)
名前呼ぶ声がきこえず見つけられ方を忘れたぼくらは無敵 (わたぬき)
※()内は作者名
ちょっとすごくないか、これは?
ここに掲げられた作者たちは、(おそらく)アマチュア歌人である。
それでも、この感受性だ。恋愛らしいことばをまるで使うことなく、恋愛の切実さをありありと表現してみせている。こういうことができるのか、とふたたびぼくは開眼させられた。
では、とぼくは思う。
アマチュアでこうなら、プロの人びとは、どういう水準でやっているのか?
興味が湧いた。
折しも、何度も読み返せる本を求めていたころである。小説やエッセイを読むのに疲れ、詩集や画集に興味を示していたぼくにとって、歌集を買う、という選択肢が生まれたのは、必然に近い。
まず読んだのは、この本だ。
これは現代短歌のレビュー本である。
作者も歌人なのだけど、そのひとの目から歌人を紹介している。現代の歌壇がどうなっていて、どういうところが批評家から評価されていて……というような内容ではなくて、徹頭徹尾、いち読者の視点から書かれているのがありがたい。
けっこう豊富に作品が用意されているのも、たいへんうれしい。短歌はその性質上、批評に実作をそのまま掲載することがたやすいのだな、と新鮮に感じた。
この本を通じて、かなり気になる歌人が増えた。
こんどは、いよいよ歌集を買ってみる番だ。
歌集は高い。
薄めの単行本で、おおよそ2,000円は取られる。これが、興味を持ったていどの読者のハードルを上げているゆえんではないかと、個人的には思う。図書カードの貯蔵がじゅうぶんでなかったら、ぼく自身も手を出せなかったろう。
でもそのぶん、立ち読みで当たりもつけやすい。
ぱらぱらとめくるなり、すこし読んでみるなりして、気に入った作品がどれぐらいあるかで、購入を検討することができる。この点、絵本や画集を買うときの感覚に近いかもしれない。内容をあるていど知っていて、それでも何回か読んでみたいと思える本を、選べばいいのだ。
こういう選び方をするから、ぼくは歌集を買って外れに当たったことがすくない(といっても、まだ5冊ぐらいしか買っていない新米読者ではある。図書カードがそれで尽きてしまったのだ)。
外れを引きにくい、というのも、読者としてはありがたいポイントだ。
歌集を買うと、ぼくはまず一回通読する。
小説を読むのとおなじような早さでめくっていくから、ほとんど20分もしないうちに読み終えてしまう。早すぎると思われてしまうかもしれないが、ぼくにはこれが合っている。
ながらく、詩の読みかたに悩んでいた。
具体的には読む速度をどれぐらいにすべきか、分からなかったからだ。噛みしめるように一行一行をじっくり読まなくてはならないのか。口の中でつぶやきながら読まなくてはいけないのか。こう思うと、どうも、詩を読むのはおっくうに感じてしまう。
あるとき、小説を読むのとおなじようにさくさくと読み飛ばしていくのがじぶんに向いていると気づいてからは、詩が読めるようになった。
さっさと読み終えてしまってかまわないのだ。
詩は、くりかえしくりかえし読むものだからだ。
琴線に触れた表現があれば、かならずまた本棚からひっぱり出してくる。何度も何度も読み返しているうちに、からだにことばが浸透してゆく。そういうふうに読めばいい。一度しか読まずに詩のすべてを味わい尽くそうとするほうが、間違っているのだ。
短歌も、ぼくは読み返す。
本棚の、いちばん手に取りやすいところに置いておくのがいい。背表紙がつねに見えていれば、磁力を感じて、また手に取る機会が出てくる。好きな歌はやっぱり好きだと感じるし、一読したときにはぴんとこなかった歌も、こんどは響いたりする。頬を撫でて吹き抜ける風を感じるように、本棚のまえに立ったまま、歌集をめくる。
歌集を買う、というのは、そういう時間を持つということでもある。
いくつか、すばらしかった歌集を紹介したい。
もう歌は出尽くし僕ら透きとおり宇宙の風に湯ざめしてゆく
びすびすと降る雹のなか抱きあって むかし金属だった気がする
やっと二人座れるだけの点のような家を想うと興奮するの
るるるっとおちんちんから顔離す 火星の一軒家に雨がふる
おいしいの苦い光がおいしいのめだかは空にえさをまかれて
雪舟えま、というのが、あの手紙魔まみのことだと知ったのは、どこかの本の解説を読んでだったと思う。読んでみて、手ざわりがあまりにも似ていることに驚いた。あんなにフィクショナルな人物が、実在していたとは。
想像どおりの歌が並んでいた。
感受性がするどすぎて、生きにくいに違いないだろうに、寄り添える男のひとを見つけて、なんとかかんとか生きつないでいる。そういう印象の歌だ。いまはしあわせそうなのだけど、いつか、破滅に至ることもわかっている。わかっているけど、いまは目を背けて、ただまどろみのなかに浸かっている。あまりにも微温的で、さみしく、切実。
読み返すと、ひとときの安らぎを追体験できる。読後には、かならずさみしくなってしまう。そういう歌集だ。
さようならふざけてフードをかぶせあいその中でした口づけの日々
ぽけんぽけんと爪を切るあのときね許されてるって思って泣いた
ふたりの夜は麦茶がわらうくらい減るふたりでいちばん人間になる
ジュンク堂追いだされてもまあ地球重力あるし路ちゅーもできる!
あかちゃんのはなしは楽しくてこわい すこしふくらんでいる避妊具
こんな恋愛をしていたな、なつかしいな、と、記憶が捏造されるような歌集だ。
青春っていうものがいかにまっすぐで、いかに透きとおっていて、いかに失われてきたものであるかを、だれもに思い出させる。あの頃の恋愛感情や、恋愛を通じてつくったあれやこれやの思い出が、その後になにも残さなかったとしても、どれほど尊いものであったのかを、みなに教えてくれる。そういうちからを持った歌が並んでいた。
この歌集を読んで、涙することはないかもしれない。しかし胸の奥にじんわりと残る感情は、きみの10代の思い出を、きっと額装してくれているはずだ。
わたしうむの。うむよ
はねをぬいて
せかいを
うまれたまちで あかちゃんをうむの。
全身からミルクのにおいをさせている
愛らしいぼくの
ぜんせかいさん
ここのおしりみるとき
いつもはじめてみるここのおしりのようにうれしい。
女性誌の表紙のことばが
解れない
ちがうねん日々は
もっと ぐちゃぐちゃ
酢のものの酢を すっす すっす飲み干しておもしろいなあ 年をとるって
すべての子育てする人びとに、この本だけは買ってほしい。
読んでほしい。
この本の後ろ側には、おなじように生活をしている人たちがいて、なんてことないしあわせを感じたり、ありふれた不幸に打ちのめされたりしながら、生きている。それがどれほどの救いになるか。
読むのがたやすい本ではない。
ぼくはいつも、ある箇所に差しかかると心臓が引き絞られて、そのまま死んでしまいそうになる。
でも、これは人生だ。この人生に真正面から向き合っているひとがいる。そのことが、どれほど救いになるか。
上に掲げたのは、この歌集の、ごくごく一面的な部分に過ぎない。この引用だけを読んで、事足れりとしてはいけないし、することはできない。とにかく読んでみてほしい。さいしょに読んだとき、ひょっとしたらきみはぼくを恨むかもしれない。甘んじて受ける。でも、何度も何度も読み返していってほしい。きみの生活そのものに、きっと寄り添ってくれる本になる。
ぼくはこの本だけは、生涯手放さないだろう。
最後に
短歌をつくりつづけるかどうかは分からないけれど、ぼくが短歌を読みつづけるのは間違いない。
また、すくないこづかいの一部で歌集を少しずつ買い足していくことも、まちがいない。
歌集は確かに高いけれど、お金を払う価値はじゅうぶんにある。
読みやすくて、読み返しやすくて、感受性を刺激してくれる。
ぜひこんど、書店で短歌のコーナーを覗いてみてほしい。その本棚から、ひそかに、一冊の歌集がきみを呼んでいるかもしれないから。