木村太郎

ちょっと書き始めました。映画とか本とかアクションフィギュアが好きです。

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最近の記事

【ネタバレあり感想】シンウルトラマン観た

バカの感想を書くオタクという生き物はとかく初見感想に飢えているものである。というわけで、今回頭を空っぽにして、上映中に感じた感覚をただただ再現することに努めた。 面白い映画を観ているとき、人は知能レベルが極端に低くなるものだ。それを踏まえた上で見ていただければと思う。 (ネタバレまみれのため改行挟む) 感想 タイトルいまシン・ゴジラじゃなかった? ウルトラQのタイトルの出方だ! すごいテロップ 早くて読めない シン・ゴジラで楽しかったところがこんな冒頭5分で見れるのう

    • スマホは「じぶんが退屈していること」を発見するためのツールである

      スマホは退屈を埋めるツールではなく、 じぶんが退屈していることを発見させられるツールである。 スマホを開き、いろんなアプリを開いては閉じ、をくりかえしているとき、 きみはまぎれもなく退屈している。刺激をもとめて、叶わないでいる。 きみは、スマホを置くべきだ。 興味ある本を手に取るか、ノートを広げるか、してみるといい。 読むことと書くこと。 それらこそが没頭を生み、 きみの退屈を雲散霧消させてくれる唯一の手立てである。 なにを読んだらいいかわからない。 なにを書いたらいいか

      • 日記ではなくノートなら続くんじゃないの?という提言

         日記って続かないよね。  そりゃもう、宿命的なまでに続かない。  続いたためしがない。  世の中にはたくさんのきれいな日記帳があって、その書物めいた雰囲気に、「これをじぶんの字だけでぎっしりと埋めてみたいぞ!」というきぶんにさせてくれる。  それで、買う。  買ってしまう。  たいがい、1月ぶんを書ききることさえできない。  それでも、何日かぶんの思考はそこに書き留められているから、おいそれと捨てることもできない。ほとんど手付かずの白紙として残された「挫折」の象徴とし

        • 歌集を買って読む

           短歌って面白い。  それに気が付いたのは、枡野浩一を読んでからだった。  ハッピーロンリーウォーリーソングと題された文庫本を、ごくなんとなく買ったのだ。  真っ白な表紙にそっけない手書きで、タイトルと作者名だけが書かれている。本を傾けて小口を眺めると、カラフルな色紙で本文が構成されているのが分かる。パラパラとめくると、見開きに一行だけの短歌と、なんてことない風景の写真が載っている。  この一冊に、しびれた。  枡野浩一は、きわめて平明かつリズミカルなことばで、なにげ

          物語の面白さの要件とは、感情が揺れ動くことである。ー感情体験から書くことを汲み上げるー

           感情を動かす人物を見て、読者が感情を動かすこと。  これが面白さの要件である。  あらゆる種類の「感情」を動かすことができるのが、ぜいたくな作品であると言える。そういうものがつくれたら、とうぜん、喜ばれるだろう。  物語で喚起できる感情の基本は「涙」と「笑い」。  そのあとに  情熱、  サスペンス、  興奮、  愛、  嫌悪、  恐怖、  畏怖、  希望、  絶望、  欲望、  不快感、  魅了、  同情、  肉欲、  怒り、  驚愕  などが続く。  クリエイティヴ脚

          物語の面白さの要件とは、感情が揺れ動くことである。ー感情体験から書くことを汲み上げるー

          いつから短篇小説は読まれなくなったのか?

           短篇小説という媒体が黙殺されるようになって久しい。  現在、ベストセラーとして名が挙げられる作品に、短篇集は入らない。ほとんどが長篇小説だ。  唯一といっていい例外が、芥川賞だろう。あれは中篇ていどの長さにはなると思うけれど、話題にはなる。読まれることはそんなに多くないかもしれないが、どのような作家が取ったのかがニュースの種になる。それだけでも珍しいのだ、日本の文芸界においては。  日本の一般読者の、短篇に対する態度はもはやアレルギーに近い。  好きな作家の新刊が出て、喜

          いつから短篇小説は読まれなくなったのか?

          とにかく前へ前へ書いていく

           文章にこだわっていたら進まない。  文章はしゃべるように書く。  いちど書いたらひっこめない。  戻らない。直さない。  先へ先へと進んでいく。  言い換えるのであれば、そのあとに続ければいい。  色気のない文章を書くように努める。  書くことを特別視しているから、こだわってしまうのだ。  じぶんたちを、職人や芸術家と勘違いしてしまうのだ。  きみたちは職人でも芸術家でもない。  きみたちは商売人である。  そういう意味で、プロフェッショナルである。  一語に何時間も費

          とにかく前へ前へ書いていく

          読む本の冊数を誇るな。

           読む本の冊数を誇ることに意味はない。  意味があるのは、一冊の本からどれほど多くを受け取ることができるか、だ。  じぶんより多くの冊数を読んでいるひとに、コンプレックスを抱く必要はない。  じぶんより多くのものを本から引き出せるひとにこそ、コンプレックスを抱くべきだ。  読み飛ばすことに意味はない。  読みこなすことに意味がある。  本は、くりかえしくりかえし読まれるべきものだ。  くりかえしくりかえし読むに足る本を、何冊持っているか。  それが重要なのだ。  ぼく

          読む本の冊数を誇るな。

          考える癖をつける ー20歳の頃に決意したことー

           手元に残されているテキストファイルには、10年前の日付のものも存在している。物持ちがいい、ということばがあるけれど、ぼくはその伝でいうと、データ持ちがとてもよいのだ。  10年前。  ぼくは、20歳だった。  若くて、迷っていた。  迷いたくないと思っていた。  その頃のテキストを読むのは、かなり、エネルギーを要する行為だ。  じぶんの青さ、迷い、そういったものが剥き出しのかたちで残されている。ようやく癒えた傷が、また開こうと疼きはじめるのを抑えられない。きついものだ。

          考える癖をつける ー20歳の頃に決意したことー

          子供が「早く大人になりたい」って言ってる方が健全だ

           人生は基本的にたのしい、という事実を伝えることができたら、親としては成功したと見ていいのではないかと思っている。  子供には希望を与えなければならない。  現代日本には、あまりにも青春賛美のものいいが多すぎる。  本来、子供は子供であることにうんざりし、早く大人になりたいと思ってしかるべきだ。  だというのに、大人は子供に「大人は大変だ」「子供時代を大事にしろ」「もう一度子供に戻りたい」と繰り返す。  だから子供が、いつまで経っても子供でいたがるのだ。  大人の方が、

          子供が「早く大人になりたい」って言ってる方が健全だ

          ネットサーフィンするより本読むほうがラクなのだ

           ネットサーフィンは、決断の連続を強いてくる。  次は何を読もうかな、  どんなワードで検索したらいいかな、  このリンクを踏もうかな……。  怠惰な姿勢でスマホをいじっているように見えて、頭は常に忙しく働いている。どこかに楽しいものはないか、見逃している情報はないか、目を皿にして探しつづけている。  これが、けっこうなストレスなのではないかと、さいきん思った。  決断を続けていると、脳が余裕を失ってしまうのだ。  考える余裕を。  考えることができなくなれば、完全にイ

          ネットサーフィンするより本読むほうがラクなのだ

          記憶力がうまく機能していない

           人間の記憶容量には限界がとうぜんあって、ここまでしか覚えていられない、というリソースが存在する。  HDD容量なんかとおなじだ。  だけれども、ぼくはHDDの容量がおそらくだいぶ小さいのだ。  日々とくに大量の情報収集をおこなっているわけでもなければ、  これまでに身に付けた知識が膨大であるわけでもないのに、  どんどん、こぼれ落ちていく。  好きなジャンルじゃないからだよ、おまえが興味を持っていないからだよ、なんて指摘を受けることもあるが、  どっこい、興味があるジャ

          記憶力がうまく機能していない

          お金に対する態度を決めかねている

           生活のモデルを探している。  じぶんがもっとも居心地よく生きられる方法を探している。  だから、海外の生活をよく調べている。  アメリカは、極端だ。  貧乏人とお金持ちが明確に分かれている。両者は接する文化自体も異なるし、生活圏も重なり合わない。ときどき貧乏人が成り上がってお金持ちの仲間入りをすることはあり、それをお金持ちは歓迎する。  アメリカは、フランクリン以降、理想のじぶんを自助によってつくりあげた人間を、最高のものとする伝統がある。  克己心によって成功を収めた人

          お金に対する態度を決めかねている

          小説における「会話文」について

           覚え書きとして、考えたことを書き残しておく。  たぶんぼく以外には分かりにくいと思うので、いつかリメイクする予定。 会話文が面白ければ、面白い小説になる 会話文が優れているのは、面白さがメディアミックスによっても失われないことだ。  地の文の描写にいくら力を入れてみせたところで、演出が巧みでなければ、読んだときに感じた興奮を再現できなくなる。  この点、会話文は演出力を問わない。  会話文の面白さとは、ことばの面白さだからだ。  ストーリーを物語る媒体で、ことばの面白さが

          小説における「会話文」について

          書けない言い訳をやめる。

           これがないから始められない、という発想に、ぼくは囚われすぎている。  これを考えてないから、これを準備していないから、これを買っていないから。いろんなかたちの言い訳をじぶんに対して用意している。  そんなことを言っているうちは、一生、なにも始められない。  なぜ言い訳などがいるのか?  じぶん相手に、なぜ弁明などしなくてはいけないのか?  じぶんがスタートをきれないのが、  じぶんの怠惰ゆえだと認めたくないからだ。  それを認めてしまえば、はてしない自己否定と自己嫌悪

          書けない言い訳をやめる。

          主題を決めて書く。

           なにか主題を決めることが大切だ。  主題をきめて、そのことについてできるだけ長く書く。途中であきらめることなく、反証や反論や再反論もふくめて、書き連ねる。そういうところから考えはまとまっていくのだ。  ともすればぼくは数行程度でやめてしまう。まだ息切れもしていないのに、そのほうが格好がつくから、後日に使いやすいからという理由で、みずから筆を置いてしまう。  だから単発の、きれぎれの思考しかうまれないし、長文を書き連ねる体力が鍛えられない。  読むことを中核に据えて、書く

          主題を決めて書く。