優生思想の生まれるところ
私は自分の父を、明治生まれにしては頭の捌けた方だととらえていた。まだ専業主婦が希少種になる前の世代の私にも職業を持つように勧めたり、結婚後、自分の仕事の手伝いにさせようという目論みがあったにせよ、若い妻を学校に通わせたりした男性である。
それでも私が夫と結婚する時、相手方に精神異常者はいないか、などと「はてな』と思うような質問が出た。母も当然のようにその質問を「大切なことだよ」と同意したし、部落出身者でないかとも尋ねた。明治38年生まれと大正13年生まれの人間としては、それはごく自然な常識的な質問だったのかも知れない。
しかし、昭和ど真ん中生まれの私は、戦後民主主義の洗礼をくぐった教育を受けている。その質問には直ちに嫌悪感が込み上げてきた。しかし、それがなぜ嫌なのかを20代の語彙で言い表すことはできなかった。だから、強い語調で「なんで?」と聞き返した。
父がこんなふうな優生思想を持ったきっかけは、軍隊の徴兵検査ではないかと疑って長い。最近ではほぼ確信に近いくらいに感じている。彼は明治生まれの割には背が高く、骨格も伸びやかにすんなりしていて持病も近眼も扁平足でも(この辺りは時代を感じる)なく、甲種合格だった。
それを随分経ってかららも時々口にしていたのが印象深い。青年たちをずらりと一律に並べて体格差を比べて優劣を決めるなどは、現在では許されない人権侵害行為と言える。しかし、戦争自体がかつては国家の大事業であった。この徴兵検査と等級分けは、国を勝利に導く厳粛なる業務の一つだったことは想像できる。
いや、もしかしたら、適材適所に人材を派遣するためには現代の戦争に於いても多少の選別や分類はあるかも知れない。与太話だが、同級生が痔疾があったために警官採用試験に落ちたとこぼしていたことがある。嘘でしょ?と思ったけど、真偽はわからない。
つい最近、かつての「優生保護法による生殖への制限」は違憲だったという最高裁の判決が出た。それに伴って、総理大臣が謝罪するなど、国の姿勢が一変した。それはまるで戦中の軍国主義から戦後の民主主義への地平がひっくり返るような掌返しのように、私の目に写った。もちろん、今頃やっとかい?とも思った。
優生思想があった父は、私たち、子孫に対する期待も大きかったのだと思う。私が近視になって、メガネをかける必要が生じたとき「カタワになった」と呟いた。これは現在では避けるべき差別用語、不快用語だが、50年前でも言われた娘の私の心に暗い影を落とした。
中学生だった当時、さすがに近視が障害とは思わなかったが、父の期待を裏切ったという気持ちは私を苦しめた。ずいぶん時間が経って、父は亡くなり母も亡くなった頃、私は指定難病を患って障がい者に認定された。関節の破壊が進んで上肢下肢とも2級、1級という国家が認定した障がい者である。
実際に歩行困難者となり、車椅子になった時、父はこれを見て何と言うだろう?と考えた。かつての彼なら嘆くだけだろう。しかし、彼も老いて半身不随という境遇を経験して、またそれを乗り越えて数年して亡くなった。
車椅子上の人となっても、私は私に変わりはない。折々空を見上げては、父に車椅子上から話をしてみた。もちろん一方的な思いでしかない。しかし、きっと父はもう障がい者をかつてのように扱わないのじゃないか、と想像してみた。彼が生きている間に、こんな私を見せたかったな、と思った。
かつて国が決めた「甲種合格」は彼の誇りを増大し、多分人生のさまざまな場面で力づけたのだろう。支えにもなったろう。その分類には功罪両面があるのかも知れない。けれど、乙種であろうと丙種であろうと、人の価値は「戦闘向きかどうか」で決定するわけではない。
そんな偏った測りの結果を握りしめて戦争を生き、戦後を生きた父たちを私は哀れにも思う。その視野の狭さも、きっと自らを維持し正当化するための棘のようなものだったろう。彼ら、あの時代の若者たちを一様に並べ無慈悲に測った、その測りが平面的で近視眼的な、手抜かりだらけの測りであったことを今の私たちは知っている。