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快感を追いかける


高齢者と言われる分類の年になって、やっとわかったことが結構色々あってなかなかに興味深い。そのひとつに「私は何をやって生きるべきか」というのがある。

具体的に言えば、仕事。何をやって生活の糧を得るか、というやつ。これの収まりが悪いともぞもぞして腹が決まらない。いつまでも自分探し的な迷路にはまり込んだような気分がとれない。

とは言え、若い人々には挑戦する権利も失敗する権利もあるし、近道に見えたとしても必ずしもそうでもなかったりするので、教訓を言うつもりはない。重なって存在するかも知れない半世紀前の自分に伝えるつもりで書く。

およそ、「作業」というものにはやり心地がある。例えば文字を書くにも鉛筆の書き心地とか、万年筆のタッチとか。絵を描くならやはり絵の具の乗り具合とか。人と接するなら人の発するものが受け入れられるか、とか。作業の周辺にある小さな動作もある。機械だとか乗り物だとか、使う素材も様々ある。その触り心地や好悪もある。

この作業や動作、素材に心地良さがないと、いかに大きな目的があっても続けることは苦痛になる。逆に言えば、この作業に快感があれば、単純であろうと、複雑であろうと、継続できる。やっているうちに壁にぶち当たって楽しいだけじゃなくなるのは、どんなこともそうであるし、乗り越えた先や達成したところに喜びがあれば、それも続く。続けていければ熟練していくわけだし、そのことによって新しいアイディアや道も自動的に見出される。

生活するためのお金を稼ぐ職業というものは継続することが必須なので、この「作業上の快感」がどうしても必要だと思う。つまり、気持ちの良さ、心地良さを追いかけていけば、それが自分を生かす最大の道なのだ、と今頃わかったというわけ。

なあんだ、と思うような簡単なことなのだが、私にはそれが長い間できなかった。好きなことは生活の基礎ができてから、みたいな呪いがたっぷり塗された時代に育ったからかも知れない。あるいは我慢して生きているおとな達が、苦労というものを美化したせいかも知れない。

いずれにせよ、私たちは身体という乗り物が心地よく快適に走るようなプログラムに従うのが、多分一番いいのだ。このことは、好きなことしかできないもん!というような強さのある人や不器用な人には疑う余地はない。だが、そこまで自我が強くない人、例えば人の役に立ちたい気持ちが最前に来る人や、周囲との調和が何より大切なタイプの人などは覚えておいた方が良いような気がする。

私は充分身勝手な人間であるけれど、やりたいことが多数あるタイプな上に、苦手なことも努力でなんとかこなす。だからこそ、快感を追いかけてそれを最優先にすべしだった。

もっとも、適した仕事云々の前に「通勤の才能がない」と言って自宅でできる作業を選んだ古い友人もいる。それで正解なのだと思う。