失われた可能性への思いやり:写真のひみつ
科学者の能力
科学者にとって一番大切な能力とは何でしょうか。
それは「源流にあるのは何かを見極める力」かもしれないし、「手法を適切に選び効率よく実行する力」かもれません。
わたしがそれらに負けないくらい大切だと思っているのは「選ばなかった選択肢の広さを想像する力」です。
科学は客観的な視点のもとに行われるべきです。
自分の感覚だけで話をしても科学にはなりません。
でも、完全に客観的な科学などありません。科学の過程の多くは主観で決定されます。テーマの設定からはじまり、データの取り方、解析方法、すべては自分で決めていきます。
主観で選んだごく限られたやり方で私たちは結果を得ているのです。
そして、それぞれの段階で、多くの選ばなかった選択肢が残されます。
風が吹けば桶屋が儲かることを念頭に、その証拠を集めようとすれば集められるはずです。しかし、実際には「桶屋さんの売り上げ」を左右する要因として「風の強さ」は取るに足らないものでしょう。
研究とは「これが本質だ」というものを主観によって見極めていく作業です。
そのために、自分が選んだ選択肢がどれだけ視野を狭めているかイメージすること、選ばなかった選択肢の幅を想像し全体像を把握しようとすることが必要です。
科学者の能力は、その想像力の確かさで決まると言っても言い過ぎとは思いません。
写真のはなし
雑誌「日本カメラ」の2020年12月号、フォトコンテストの総評で写真家の十文字美信さんが、写真撮影に重要なのは思い浮かべたイメージではなくそのとき排除した可能性の方であるとし、それを「失われた可能性への思いやり」と書かれていました。
「失われた可能性への思いやり」
写真表現という必ずしも客観性が必要とされない場でも、選ばなかったものへの想像力が大切なのです。
ただし、その意味は科学の場合とは違います。
科学では「正解を選ぶために」選ばなかった選択肢への想像力が必要となります。一方、表現においては、意思によって選ばれたものはその時点で正解ではなくなっている、つまり「答えは選ばなかったものの中にある」のです。
意識的に選んだものに花は咲かないからです。
※詳しくは前に書いた記事を読んでください(長いですが...)。
不便という性能:古いカメラ
ところで、あなたのまわりの写真の上手な人が、古いフィルムカメラを使っていたりしませんか。そして、その人の写真を見て「やっぱりうまい人はどんなカメラで撮ってもうまいなあ」と思っていませんか。
違います。
カメラの進化によって、露出とピントが自動化され、高速連写されたものから抜き出すことでシャッターチャンスさえもあとで選択できるようになりました。自分のイメージ通りに写すことが簡単になったのです。
でも、イメージ通りに写った写真が面白いでしょうか?
想定外のものが写るから写真は面白いのです。
不便なカメラを使うと、偶然はずれたピントや露出、意図とは違うシャッターチャンス、それらによって自分の意思とは違う「失われるはずだった可能性」を捉えることができます。
面白さはそこにあります。
古いカメラを使って素敵な写真を撮る人のすごさは「どんな道具でも思い通りの写真が撮れること」ではありません。「思い通りにならない道具を使う利点を知っていること」そして「自分の意思と違うものを受け入れられること」なのです。
追記
「お父さんの撮った運動会の写真、わたしは小さくしか写ってないし、ピンボケだし、全然ダメやん」と思ったその写真、本当にダメですか?確かに、徒競走で先頭を走るシーンが、アップでピントばっちりで写っていれば、それはいい記念になります。でも、あなたが小さくしか写っていない写真には、そのまわりの運動会の雰囲気が写っています。そして、ピンボケの写真には、必死で撮ろうとするお父さんの興奮した様子すら写り込んでいる気がします。わたしのこどもの頃の写真がまさにそういうものが多いのですが、そんな写真がとてもいい写真に思えます。