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「ペンギンは飛ぶのをやめたんだよ」と彼女は言った


ある午後、雨上がりの緑を眺めていると1羽のトンビが目の前を横切りました。「やっぱり飛べるって強いよね」そう言うわたしに「でもさあ」と彼女は続けました。「ペンギンは飛ぶのをやめたんだよ」。


飛ぶって大変です。
大きな翼が必要で、体や脳を大きくすることもできない。飛ぶ以外の場面では、飛ぶための能力は重荷です。いや、利点に思える「遠くに行けること」や「多くの情報が得られること」すら、生きる上での障害になることもあるでしょう。


「ペンギンは飛ぶのをやめたんだよ」


この言葉はそれからも、ことあるごとに頭の中によみがえってきます。
少し前の記事に「不便なカメラは必要とされ続ける」と書いたときもそうでした。

オートフォーカスやデジタル技術はカメラにとっての「翼」です。仕上がりの状況を見ながら1秒間に何十枚の写真をピントも露出も外さずに撮影できる。その技術によって、撮りたい写真を簡単に撮れるようになりました。

でも、その翼のせいで失ったものもあります。

自分の意図と違うものを写す力、新しいものに気づかせてくれる力、写真が持っていたとても大切な力は技術の進歩によって弱まっていきました。

幸いにして、この「翼」を手放すことは難しくありません。古いカメラを使うのもその方法のひとつです。


ペンギンがまだ飛んでいた頃。
その中にあまり飛ぼうとしないペンギンたちがでてきました。
「鳥なんだからちゃんと飛べよ」
「まったくダメなやつだなあ」
飛ばないペンギンはバカにされたことでしょう。
でも、その後、飛ぶペンギンは減っていき、飛ばないものだけが残りました。もしみんなが飛び続けていたら、ペンギンはいなくなっていたかもしれません。


人にも翼があります。

一日もかからずに地球の裏側に行けますし、地球外に出ることだってできます。遠い国の情報は瞬時に届き、いまやAIによって思考や感情の地平線さえ越えようとしています。それなのに、さらに速く、もっと遠くまで飛ぼうとします。

進歩を求める気持ちを止めることはできません。でも、「知能」という翼はこれからもわたしたちをしあわせにしてくれるでしょうか?


ペンギンはみんなで話し合って飛ばなくなったわけではありません。飛び続けたペンギンと飛ばなくなったペンギンがいて、飛ばないペンギンが残っただけです。自分たちの大切な力を自らの意志で捨てることはできないのです。大きすぎる翼が重荷であることにうすうす気づいていたとしても。


科学は倫理とともに進歩すべきだと言われます。
それはその通りですが、倫理で科学を制御するのには限界があります。知能は次の知識や力を求め続け、手にした力は必ず利用されるのです。

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きっと、圧倒的な科学力を持った生命体は宇宙のどこにも存在しません。
大きくなりすぎた自分の翼に押しつぶされてしまうから。

その宿命に抗うためにも、せめて手放せるものは手放していきたい。
そんなことを考える8月の終わりです。


深い話のようでありながら、「古いカメラも悪くないなあ」と言っているだけの文章かもしれない。


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kimura noriaki
「科学」と「写真」を中心にいろんなことを考えています。