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それを「写真」と呼んでもいいですか?
今日、1台のカメラを持って、
世界で一番大切なものを撮りにいきます。
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何のために写真を撮っていますか?
以前なら、写真は特別な瞬間を残すものでした。冠婚葬祭、こどもの成長、友達との旅行。それらの写真はプリントされ、アルバムに貼られ、あとで見返されました。もちろん、そういう写真は今でもたくさんあるでしょう。
でも、昨日のお昼の海鮮丼の写真、それをあとで見返しますか?
最近の写真の多くは、見返すために撮られていません。わたし自身のことを考えても、心を動かされたものを記憶に焼き付けるため、なにかに区切りをつけるため、平坦に流れる時間にアクセントをつけ、いつもよりしっかりと世界を見るため、そんな目的のために写真を撮っています。
そういう写真は「撮られた画像」ではなく「撮ること」に意味があるのです。ただし、その意味を支えているのは「確かに記録に残された」という確信です。
写真とは「写ったもの」ではなく「写すこと」であり、写ったものは、写真の「証拠」に過ぎない。そう言えるのかもしれません。
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古いカメラバッグのポケットから1本のフィルムがでてきました。
ブローニーサイズのコダクローム64P。好んで使っていたフィルムです。使用期限は1996年12月。
いや、使用期限の問題ではありません。コダクロームは現像に複雑な処理の必要なフィルムです。そして、その現像設備は地球上に(おそらく宇宙のどこにも)もう存在しません。これから先、現像が可能になることもないでしょう。
今日、このフィルムを愛用の(最近ではほとんど使うことのなくなった)ハッセルブラッド500Cに入れ、「世界で一番大切なもの」を撮りにいきます。
他には何も持ちません。
1本のフィルムの入った、このカメラだけです。
ファインダーをのぞき、わたしはシャッターを切ります。
フィルムに光が当たって化学反応が起こり、「世界で一番大切なもの」の痕跡が残されます。少なくともわたしの人生より長い期間、その痕跡は消えることなくそこに留まるでしょう。
それは確かな存在のある「物質」です。信号の羅列に過ぎないデジタル画像よりもはるかに信頼できる「証拠」が残されます。
写ったものは誰にも見ることができません。
でも、それが問題でしょうか?
「証拠」として必要なのは、そこに痕跡があるという確信だけです。
見ることができないおかげで、写った画像によって「世界で一番大切なもの」の記憶が乱されることもありません。これ以上ない純粋な形で「世界で一番大切なもの」は「写真」になるのです。
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2021年10月のある日、「世界で一番大切なもの」をこのフィルムに撮りました。とてもよく晴れた日でした。穏やかな西風が故郷の海を思い出させました。わたしはいつも以上に冴え渡った感覚で、ファインダーの中に「世界で一番大切なもの」のきらめきを見ていました。その時、たしかに聞こえました。「世界で一番大切なもの」の「撮ってください」という声が。それに応えるようにシャッターを押し、そのたびに最高の瞬間が刻まれてゆくのがわかりました。わたしと「世界で一番大切なもの」は、奇跡のようにひとつになりました。
もしいつか、わたしの写真がどこかで展示されることがあったら、一番大切な場所に撮影済みのコダクロームを置くのです。こんな一文を添えて。
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歳をとって死の間際になっても、わたしはこのフィルムに写ったものをありありと思い出すでしょう。そこには何よりも美しい「世界で一番大切なもの」の痕跡が残されている。その確信とともに。
これはわたしの最高傑作です。
それを「写真」と呼んでもいいですか?
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