歎異抄の旅(6)なぜ、法然上人は、父を殺された仕返しより、比叡山を選んだのか
桜が咲きだした3月中旬、東京駅から朝6時30分発の新幹線に乗り京都へ向かいました。快晴です。
今回は、京都駅前からレンタカーで比叡山(ひえいざん)へ向かいます。
鴨川(かもがわ)に沿って北へ車を走らせると、桜が美しく咲き始めていました。五分咲きくらいです。
銀閣(ぎんかく)を過ぎた辺りで東へ折れて、カーブの多い山道を進みます。
比叡山ドライブウェイに入ると、道路の両側の樹木は、枝の先が赤紫色にふくらんでいました。
山頂付近の延暦寺(えんりゃくじ)バスセンターに到着。前回、1月に来た時は、広い駐車場はガラガラでした。3月ともなると、自家用車がたくさんとまっています。
耳を澄ませば、「ゴーン、ゴーン」と、鐘の音が聞こえてきました。一打五十円で、自由に突ける大講堂の鐘。やはり、観光客が増えると、鐘もよく鳴りだします。
「山頂付近の桜は、まだ咲いていないのかな」と思って歩いていると、見つけました!
延暦寺バスセンターの駐車場と国宝殿の間に、淡いピンクと、濃い紅色の桜が、咲き誇っています。修行の山にも、春が来ていました。
義経を守った弁慶が、比叡山に!
今回は、西塔地域(さいとうちいき)へ向かいます。
延暦寺バスセンターから、車で、奥比叡(おくひえい)ドライブウェイへ。この道路には、比叡山らしい標識が次々に現れます。
まず、
「鹿の飛び出し注意」
の警告。熊でなくてよかった……。でも、衝突したら大変。スピードの出し過ぎは禁物です。
次に、
「歴史と修行の道」
と書かれた標識。なんと、行者の写真入りです。この道を深夜か早朝に行者も歩くのでしょうか……?
西塔地域の入り口が近づくと、
「親鸞聖人(しんらんしょうにん)ご修行の地」
の案内。親鸞聖人のイラストまで載っています。天台宗の山なのに、まさか、こんなストレートに親鸞聖人をたたえる道路標識があるとは驚きでした。
「親鸞聖人のファンの皆様、ようこそ西塔へお越しくださいました!」と呼びかけているようです。
案内に従って、西塔の駐車場へ入ると、弁慶(べんけい)が迎えてくれました。
駐車場を見渡す位置に、僧兵姿の弁慶の絵看板が立っていて、
「剛力無双 比叡の弁慶」
と書かれています。なかなかカッコいい弁慶です。平家を滅ぼした英雄・源義経(みなもとのよしつね)を、最後まで守り通した弁慶は、比叡山の僧兵だったといわれているのです。
弁慶の写真を撮っていると、駐車場にバスが入ってきました。観光客を乗せて、東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)を巡るシャトルバスです。
一人の高校生がバスから降りてきました。ガイドブックを見ながら、どういう順序で見学するか考えているようです。比叡山の歴史を研究しているのかもしれません。
吉川英治の小説『親鸞』に出てくる場所?
若き日の親鸞聖人は、西塔地域の常行堂(じょうぎょうどう)でも、仏教を学ばれたことがあるようです。
「ようこそ比叡山延暦寺へ」と大書された山門をくぐって、坂道を下りていくと、「常行堂・法華堂(ほっけどう)」の位置を示す標識がありました。
左へ曲がると、すぐに二つの寺が見えてきます。
左が常行堂、右が法華堂。
しかも、渡り廊下で連結されています。
この二つの建物を総称して「にない堂」と呼ぶそうです。
なぜ、「にない堂」なのか。
実は、弁慶が、この渡り廊下に肩を入れ、天秤棒を担うように常行堂と法華堂を持ち上げたとか……。弁慶が担ったから「にない堂」。漫画のような伝説です。
渡り廊下に近づいてみると、大人が手を挙げて通れるくらいの高さがあります。いくら剛力無双の弁慶でも、肩で担うのは無理ですよね……。
親鸞聖人ゆかりの常行堂の前には、杉の大木がそびえています。その根元は、緑色の美しい苔で覆われていました。
「親鸞聖人旧跡」
と刻まれた小さな石碑が建っています。いつの時代のものでしょうか。長い年月、風雪に耐えながら、
「この山で、親鸞聖人がどんなご苦労をされたのか、忘れないでほしい」
と、無言で語りかけているようでした。
私の前にいる夫婦の会話が聞こえてきました。
「あれ、この寺には、誰もいないのね」
「せっかく巡拝料を払ってきたのに、誰も説明してくれないのか!」
「そこに看板があるじゃないの」
「こんなんじゃ、分かんないよ」
ごもっとも。
うなずかざるをえません。英語と日本語で、文化財としての、難しい説明があるだけでした。
先ほど、バス停で見かけた高校生がやってきました。一生懸命に、メモを取りながら常行堂を見つめています。その姿に、まじめだな、と感心しました。
日本の歴史や文化を学ぼうと、比叡山へ来る若者には、建物を見学するだけでなく、もっと大切なことを知ってもらいたいのです。
1200百年前に比叡山を開いた伝教大師は、観光地にするために寺を建てたのではありません。
こんな山奥に、100以上もの寺を建立するには、莫大な経費と、労力が必要だったはずです。
まして、この山に入る者は、家族と別れ、不自由な生活に耐え、命懸けで仏教を学んでいたはずです。
なぜ、そこまでする必要があったのでしょうか。
まず、「なぜ」という疑問を持ち、その謎に関心を持ってもらいたいのです。
もし、葬式、法事が仏教の目的だとしたら山奥に寺を建てる必要はありません。
仏教のテーマは、
「人は、なぜ生きるのか」
「死んだらどうなるのか」
という、「生」と「死」の大問題なのです。しかも他人事ではなく、自分に迫る切実な問題です。
これを仏教では「後生(ごしょう)の一大事」といいます。山に入って、厳しい修行に打ち込む目的は、「後生の一大事」の解決、これ一つでした。
常行堂をあとにして、駐車場へ戻ろうとすると、参道の曲がり角に、「聖光院跡(しょうこういんあと)」と刻まれた古い石碑を見つけました。
「まてよ、吉川英治の小説『親鸞』に聖光院が出てきたな。たしか、親鸞聖人は、朝廷から聖光院門跡という高い地位を贈られたと描かれていたはず……」
苔に覆われた石碑をよく見ると、小さな文字で、
「親鸞聖人 住持の寺」
と刻まれていました。
小説は、あくまでもフィクションです。実際に、親鸞聖人が高い地位を得ておられたかどうかは、分かりません。
しかし、吉川英治の小説『親鸞』は、昭和35年に中村錦之助主演で映画化され、大ヒットしました。おそらく、そのストーリーに感動した人たちが、この地に石碑を建てたのでしょう。
親鸞聖人の生き様は、小説になっても、映画になっても、多くの人々の心を、強烈に引きつけていることを表しています。
父の遺言を守った法然上人
親鸞聖人は、『歎異抄(たんにしょう)』の中で、
「法然上人(ほうねんしょうにん)にならば、だまされても後悔しない」
と言い切っておられます。それほど尊敬されていた法然上人の旧跡が、西塔地域にあるのです。比叡山での取材を終える前に、訪ねてみたいと思います。
まず、法然上人とは、どんな方だったのか。生い立ちを見てみましょう。
法然上人は、美作国(みまさかのくに・現在の岡山県)の武士・漆間時国(うるまのときくに)の子として生まれました。幼名を勢至丸(せいしまる)といいます。
漆間時国は、同じ地域の武士・明石定明(あかしさだあきら)と領地をめぐって対立していました。
保延(ほうえん)7年(1141)の春、ついに、事件が起きます。
明石定明が、漆間時国の館へ夜討ちをかけたのです。時国は、戦う用意もできず、殺されてしまいました。
この時、勢至丸は9歳でした。
突然、わき起こった武士の足音や、剣で斬り合う響きにおびえながら、物陰に隠れていたのでしょう。明石の軍勢が去ってから、瀕死の父のそばへ駆け寄り、けなげにも、
「勢至丸が、必ず、父上の恨みを晴らしてみせます」
と報復を誓うのでした。
しかし、父は、苦しい息の中から、わが子に、こう諭したのです。
「決して犯人を恨んではならない。私がこんな不幸な目に遭ったのは、過去世からの、自分の悪い行いの結果なのだ。因果応報(いんがおうほう)なのだ。
おまえが仇討ちをすれば、今度は、相手の子供が、おまえに報復しようとするだろう。仕返しは愚かな行いだ。勇気を出して報復の連鎖を断ち切りなさい。
父を思ってくれるなら、仏教を学んで、日本一の僧侶になり、私の菩提(ぼだい)を弔(とむら)ってくれ。そして、すべての人が救われる教えを伝えなさい」
今日でも、怒りや恨みの心から、仕返しをしたり、報復を企んだりする人が多いと思います。
まして、仇討ちが、武士の名誉かのように思われていた時代にあって、報復を思い留まらせた漆間時国は、すばらしい父親だったと思います。
時国は、仏教を聞いていたからこそ、そのように教えることができたに違いありません。
仏教では、
「あなたに現れる不幸や災難は、あなたの悪い行いが生み出したものなのですよ。不幸になりたくなければ、悪い行いを慎みなさい」
と教えられます。
そして、
「あなたの幸福は、あなたの善い行いが生み出すのです。幸せになりたければ、善い行いをしなさい」
と勧めるのが仏教なのです。
漆間時国は、わが子に幸せになってほしいという一心で、人を恨んだり、報復したりする愚かさを、戒めずにおれなかったのでしょう。
勢至丸は、父の遺言に従って、母方の叔父の寺へ入りました。
そして13歳で比叡山へ登り、本格的に仏教の学問と修行に励むようになったのです。比叡山で、師匠から与えられた名が、「法然」でした。
法然上人は、若くして、比叡山で「智恵第一」と謳(うた)われるまでになります。
しかし18歳の時に、名誉や利益に心を惑わされることなく、仏教を学びたいと決意し、西塔地域の中でも北側にある、黒谷(くろだに)の寺へ入られたのです。
黒谷には、釈迦(しゃか)が生涯かけて説かれた経典のすべてを収めた報恩蔵(ほうおんぞう)がありました。経典の数は、7000巻以上もあります。
法然上人は、「後生の一大事」の解決を求めて、ひたすら仏道修行に打ち込まれます。しかし、釈迦の教えに、真剣に向かえば向かうほど、見えてくるのは、とても救われない自己の姿ばかりでした。法然上人は報恩蔵へ入り、泣き泣き、すべての経典を5回も読破されたのです。
そして、承安(しょうあん)5年(1175)の春、阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願(ほんがん)によって、後生暗い心が晴れ渡り、
「このような悪ばかり造っている法然でも、このような愚痴の法然でも、阿弥陀仏は救ってくだされた」
と涙ながらに叫んでおられます。
法然上人43歳の時のことでした。
※後生暗い心……死んだらどうなるか分からない心
法然上人遺跡、黒谷の報恩蔵へ
弁慶の絵看板のある西塔バス停から、黒谷の報恩蔵へ向かいましょう。同じ地域なので、歩けばすぐに着くと思ったら大間違いでした。車で、奥比叡ドライブウェイの峰道バス停まで移動します。
ここにはレストランがあり、琵琶湖を一望できる展望台も整備されていました。レストランの前に車をとめて、カメラだけ持って歩きます。道路脇に、
「法然上人御修行地 黒谷青龍寺参道」
と刻まれた石碑がありました。
報恩蔵は、現在、青龍寺(せいりゅうじ)の境内に再建されているそうです。どんな建物なのでしょうか。
琵琶湖とは反対側の山奥へ参道が続いています。鬱蒼(うっそう)とした谷間へ向かうのです。
杉林に入ると、春の日差しも届きません。空気がひんやりしています。
小鳥のさえずりが、気持ちよく耳を洗いますが、どこまで坂を下っても、寺らしき建物は見えてきません。
30分ほど歩いて、「道を間違えたのかな……」と不安になってきたころに、坂道の下に、寺の屋根が見えてきました。青龍寺です。
山門を入ると、境内の右手に、真新しい御堂が建っていました。
正面の柱には、
「法然上人遺跡 報恩蔵」
と書かれています。
確かに、ここが報恩蔵です。
法然上人は、どのようなお気持ちで、この御堂にこもって、膨大な数の経典を読まれたのだろうか……と、しばし感慨にふけっていました。
法然上人は、父の遺言を守り、黒谷で25年間も一心に仏教を学ばれたのでした。
御堂は再建され、大切な「遺跡」として残されています。しかし、今、ここで、阿弥陀仏の本願を聞くことはできません。できれば、生きている私たちに、生きた教えを説く場所になってほしいと願わずにおれませんでした。
さて、帰ろうと思って、先ほど下りてきた坂道を見上げて驚きました。まるで空まで階段が続いているように見えます。何百段あるだろうか……。
上るのは、予想以上に困難でした。息を切らして、何度も休憩し、やっとの思いで、峰道バス停にたどり着きました。
すると、どこかから、
「ホー、ホケキョ」
と美しい鳴き声が、繰り返し聞こえてくるではありませんか。ウグイスの声でした。
比叡山を下りて、京都の吉水へ
「後生の一大事」の解決を果たされた法然上人は、直ちに比叡山を下りられました。そして、京都の吉水(よしみず)で、すべての人が、平等に救われる阿弥陀仏の本願を説かれたのです。
吉水には、法然上人のご法話を聞きたいと、一般大衆だけでなく、武士や貴族も集うようになり、念仏(ねんぶつ)の声が絶えることはありませんでした。
親鸞聖人は9歳の時に、京都の青蓮院(しょうれんいん)で出家得度(しゅっけとくど)を受けられました。
その青蓮院と、法然上人の吉水は、とても近い場所にあります。歩いて5分もかかりません。
しかも親鸞聖人が出家された時、すでに法然上人は吉水で阿弥陀仏の本願を説いておられたのです。
なんと悲しいことでしょうか。親鸞聖人が、生涯の師と仰がれる法然上人に巡り会われるまで、それから20年もの歳月が必要だったのです。
「善知識(ぜんぢしき)にあうことも
教うることもまた難(かた)し」
親鸞聖人のお言葉です。「後生の一大事」の解決の道を、正しく示してくださる善知識にお会いすることは、とても難しいことなのです。
親鸞聖人は、どのような経緯で比叡山を下り、法然上人のお弟子になられたのでしょうか。次回は、大阪の聖徳太子(しょうとくたいし)の御廟(ごびょう)を訪ねてみましょう。