【『百人一首』と人生と】あの人に伝えておくれ、私はもう出発したと……(小野篁)
【意訳】
目の前に、青い海が、果てしなく広がっている。私が乗った船は、瀬戸内の島々の間を縫うように、遠い遠い目的地へ向かって進み始めた。
近くを通り過ぎていく釣り船よ、おまえに頼みたいことがあるんだ。私が、もう出発してしまったことを、せめて都に残してきたあの人に、伝えてくれないだろうか……。
【解説】
美しい風景が浮かんでくる歌ですが、楽しい旅に出る心境とは、違うようです。
それもそのはず、作者の小野篁は、流罪人でした。船で難波(なにわ。現在の大阪市の辺り)を出発し、隠岐国(おきのくに。現在の島根県・隠岐諸島)へ流される時の心境を詠んだ歌なのです。
小野篁は、どんな罪を犯したのでしょうか。
彼は、遣唐使の副使に任命されていました。中国・唐の文化を学ぶために、日本から派遣されていた使節団の副責任者です。
遣唐使は、2隻から4隻の船に分乗し、多い時には600人ほどで唐へ向かっていました。当時は、船が難破する事故が多く、命懸けの航海だったのです。そのため、船の整備に万全を期すのは当然のことでした。
ところが、日本を出発する直前になって、使節団の責任者・藤原常嗣(ふじわらのつねつぐ)の船に欠陥が見つかったのです。
そこで、藤原常嗣は、何をしたか。
なんと、破損した自分の船と、小野篁の船を取り替えてしまったのでした。
この理不尽な処置に、小野篁の怒りが爆発します。
しかし、いくら抗議しても、受け入れられませんでした。
彼は、「破損した船に乗せられるくらいならば、唐へは行かない」と決断。病と称して乗船を拒否しました。
それだけでなく、詩を作って遣唐使のあり方を風刺し、批判したのです。
この行動に嵯峨上皇(さがじょうこう)が激怒し、小野篁は流罪に処せられたのでした。当時は、死刑が廃止されていたので、流罪は極刑でした。
二度と京都へは戻ってこられないだろう、という絶望感が、この歌に込められています。
流罪人の頼みなど、聞いてくれる人はいません。
近くを通り過ぎる釣り船に向かって、
「おまえに頼みがあるんだ。都に残してきた恋しい人に、私が出発したことを、伝えておくれ」
と語りかけずにはおれなかったのです。
幸いにも小野篁は、2年後に許されて都へ戻り、それまで以上に出世したといわれています。
小野篁(802~852)
平安時代初期の歌人、漢詩人。