歎異抄の旅(8)恋は、厳禁ですか? 赤山明神のナゾ
美しい女性との出会い……。それは、若き日の親鸞聖人(しんらんしょうにん)にとって、激しく、苦しい恋の始まりでした。
「えっ! 比叡山(ひえいざん)の修行僧が女性に心を奪われるなんて……」
こんな疑問がわくかもしれません。
たとえ高僧であっても、人間である以上は、欲、怒り、恨み、ねたみなどの煩悩を消すことはできません。
親鸞聖人は、偽らず、ごまかさず、自らの心を見つめ、「恋」という名の煩悩と格闘されました。その姿は、多くの伝記、小説、映画に描かれています。
今回は、親鸞聖人が美しい女性と出会われた場所・赤山明神(あかやまみょうじん)を訪ねてみましょう。
なぜ、「赤山禅院」と改名?
司馬遼太郎が、謎を解く
東京から新幹線で京都へ向かいました。
目指すは、比叡山のふもとの赤山明神。まるで「神社」のような名前ですが、比叡山延暦寺(えんりゃくじ)の別院、つまり「寺」なのです。親鸞聖人の伝記には「赤山明神」とあるのに、現在の地図には「赤山禅院(あかやまぜんいん)」と記されています。
なぜだろう?
「明神」と「禅院」は、どう違うのか?
いろいろ調べても分からず、モヤモヤしていました。京都へ向かう新幹線の中で、司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』を読んで、やっと、その謎が解けました。
確かに明治の初めまでは「赤山明神」だったのです。延暦寺(えんりゃくじ)が「赤山禅院」と改名した理由を、司馬遼太郎はこう書いています。
なるほど、延暦寺にとっては、寺の別院として重要な位置にある赤山明神を、「神社」にされては困るのです。延暦寺から切り離されないように、寺らしい名前に変更したのでした。
京都駅から、電車を乗り継いで、比叡山のふもとへ向かいます。
修学院駅(しゅうがくいんえき)で下車。無人駅です。町の中を、比叡山へ向かって10分ほど歩くと音羽川(おとわがわ)にさしかかります。
この川に沿って、上流への道を進んでいくと、多くの人が集まっていました。修学院離宮(しゅうがくいんりきゅう)の庭園を見学に来た観光客です。
その手前を左折して、しばらく歩くと赤山禅院が見えてきます。人影もなく、静かな場所でした。
「赤山明神」と刻まれた大きな石碑が立っています。
山門の左の柱には、「赤山禅院」と墨で大書されています。やはり、両方の呼び名があるのは確かです。
門をくぐると、参道は、緩やかな上り坂になっています。道の両側に石垣が積まれ、空を覆うように樹木が茂っていました。
赤山禅院は、紅葉の名所として知られています。秋になると、この参道は、赤色や黄色の美しいトンネルに変わるのでしょう。
また、なぜか参道には「都七福神」の旗が立っています。
京都の観光案内では、都七福神の一つとして、赤山禅院が紹介されています。「七福神」は、本来の仏教とは違うはずなのに、どうしてだろう……、と疑問を感じずにはおれませんでした。
参道を進むと、左側の一段と高い所に、いくつもの建物が現れてきます。
境内に受付があったので、尋ねてみました。
「赤山禅院は、比叡山延暦寺にとって、どういう役割があるのですか」
「千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)の道場であり、仏道修行をする者にとって重要な場所です」
千日回峰行とは、比叡山で行われる最も厳しい修行です。千日間かけて、比叡山の峰から峰へ歩き続けます。ただ歩くのではありません。途中、約三百カ所で、定められた修行をしなければならないのです。千日間で歩く距離は、地球を一周する距離と同じだといわれています。
「千日回峰行の行者が、この寺に立ち寄るのですか」
「赤山禅院は、比叡山への登山口・きらら坂の近くにあります。千日回峰行の行者は、きらら坂を下りてきて、ここで草鞋(わらじ)を履き替え、さらに歩き続けるのです。履き古した草鞋は、この裏の建物の軒下につるしてあります。千日回峰行を達成した僧は、大阿闍梨(だいあじゃり)と呼ばれ、この赤山禅院の住職になります」
「突然ですが、住職の大阿闍梨に、お話を伺うことはできませんか」
「何カ寺も兼務していますので、今日は留守にしています」
大阿闍梨に会えないのは残念ですが、千日回峰行の行者が残した草鞋を見に行くことにしました。
それは、受付の裏の建物の軒下に、ズラリとつるされていました。
その数の多さに驚きました。
ボロボロにほつれた草鞋を、じっと見つめていると、白装束に身を包み、峰から峰へ歩き続ける行者の姿が目に浮かんでくるようでした。
この山には、非情な掟がありました。
「千日回峰行を、途中で断念する場合は自決せよ」と。
たとえ病気になっても、親が危篤と知らせが届いても、中断することは許されませんでした。
どんな覚悟で、ここで草鞋を履き替え、仏道修行に励んだのだろうかと、厳粛な気持ちになりました。
「なぜ、女を見捨てるのですか」
赤山明神に現れた謎の女性
なぜ、仏教を求めるのか。
なぜ、厳しい修行をするのか。
この目的が分からないと、親鸞聖人の生涯も、古典『歎異抄(たんにしょう)』も理解できなくなります。
幼くして両親を亡くされた親鸞聖人は、
「次に死ぬのは自分の番だ」
と、無常を強く感じられました。
「死んだら、どこへ行くのか」
「死後は、あるのか、ないのか」
えたいの知れない不安と疑問がわいてくるのです。
人は必ず死にます。これらの不安や疑問は、すべての人にとっての大問題です。
この大問題を、仏教では「後生(ごしょう)の一大事」といいます。
「後生の一大事」を解決し、この世から永遠の幸福になるために仏教を求めるのです。
親鸞聖人は、9歳で出家を決意し、比叡山延暦寺の僧侶になられました。
延暦寺は「自力の仏教」です。欲、怒り、恨み、ねたみなどの煩悩(ぼんのう)と格闘し、難行苦行(なんぎょうくぎょう)に励むことによって、「後生の一大事」を解決しようとする教えです。
親鸞聖人は、この教えに従い、千日回峰行よりも、格段に厳しい難行を達成されたと伝えられています。まさに、煩悩と格闘する日々でした。
そんなある日、親鸞聖人が、都から比叡山へ戻ろうとして、赤山明神の前を通られた時のことです。
どこからともなく、
「親鸞さま、親鸞さま」
と呼びかける女性の声がしました。
「こんな所で、誰だろう?」
振り返ってみると、ハッとするほど美しい女性が立っていました。
「私を呼ばれたのは、そなたですか」
「はい。私でございます。親鸞さまに、ぜひ、お願いがあって……。どうか、お許しください」
「この私に、頼み?」
「はい、親鸞さま。今からどこへ行かれるのでしょうか」
「修行のために、山へ帰るところです」
「それならば、親鸞さま。私には、深い悩みがございます。どうか山にお連れください。この悩みを何とかしとうございます」
「それは無理です。あなたもご存じのとおり、このお山は、伝教大師(でんぎょうだいし)が開かれてより、女人禁制(にょにんきんぜい)の山です。とても、お連れすることはできません」
「親鸞さま。親鸞さままで、そんな悲しいことをおっしゃるのですか。伝教大師ほどの方が『涅槃経(ねはんぎょう)』を読まれたことがなかったのでしょうか」
「えっ、『涅槃経』?」
「はい。『涅槃経』の中には、『山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)』と説かれていると聞いております。すべてのものに仏性があると、お釈迦さまは、おっしゃっているではありませんか。それなのに、このお山の仏教は、なぜ女を差別するのでしょうか」
「……」
「親鸞さま。女が汚(けが)れているから、と言われるのなら、汚れている、罪の重い者ほど、よけいに哀れみたまうのが、仏さまの慈悲と聞いております。なぜ、このお山の仏教は女を見捨てられるのでしょうか」
鋭い指摘に、親鸞聖人は、返す言葉がありませんでした。
今でこそ比叡山は、観光バスや自家用車、ケーブルカーなどで、誰でも登ることができます。どの寺へ参拝するのも自由です。
しかし、明治時代までは、「女人禁制」「女人結界(にょにんけっかい)の地」として、女性の入山は固く禁じられていました。
生きることに悩み、苦しんでいるのは、男も女も同じです。
「死んだらどうなるのか」と、暗い心を抱えているのは、男だけではないのです。
それなのに、なぜ、比叡山の仏教は、女性を差別するのか……。
赤山明神に現れた女性の言葉は、親鸞聖人の胸に深く突き刺さるのでした。
噴き上がる恋の炎
煩悩との格闘が続く
やがて女性は、
「親鸞さま。どうか、すべての人が平等に救われる教えを明らかにしてくださいませ」
と言い残し、どこへともなく去っていきました。
しかし、親鸞聖人の心には、この日から異変が起きたのです。
吉川英治は、小説『親鸞』に、次のように書いています(範宴(はんねん)は、比叡山時代の親鸞聖人の名前です)。
天台宗や真言宗などの「自力の仏教」では、僧侶が女性に心を奪われないように厳しい戒律を定めています。
「大蛇を見るとも、女人を見るな」
「火柱だいても、女人はだくな」
「女人は地獄からの使いなり」
とまでいわれています。
親鸞聖人は、戒律を破るようなことはしておられません。
誰よりも、真面目に修行に打ち込んでおられました。
しかし、心の中に噴き上がる恋情の炎は、理性の力では消せません。心で造る罪の重さに苦しまれたのです。
何をしていても、赤山明神で出会った女性の面影が浮かんできます。
「そんな邪念を振り払え!」
と自己を叱咤し、さらに修行に打ち込んでも、耳の奥から、
「親鸞さま、親鸞さま」
と、ささやく声が聞こえてきます。
「こんなざまでは、後生の一大事を解決できないぞ。煩悩に打ちかつのだ」
と必死に誦経(ずきょう)しても、経典の文字の上に女性の顔が浮かんでくるのでした。
「欲にまみれ、怒り、恨み、ねたみの心が渦巻いている人間は、救われないのか」
「男も女も差別なく、平等に救われる教えはないのか」
この疑問が氷解するのは、親鸞聖人、二十九歳の時です。
法然上人(ほうねんしょうにん)から、阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願(ほんがん)を聞かせていただくまで、煩悩との格闘は、まだまだ続くのでした。
『歎異抄』には、阿弥陀仏の本願に救い摂られた親鸞聖人の言葉が、次のように記されています。
「仏教が人を殺すかあ!」
赤山禅院の大阿闍梨の一喝
2020年のNHK大河ドラマは、「麒麟(きりん)がくる」でした。その主人公の明智光秀(あけちみつひで)は、比叡山と深い関係があります。
親鸞聖人の時代から約400年後の元亀(げんき)2年(1571)。織田信長(おだのぶなが)は、比叡山を焼き討ちし、僧侶を皆殺しにせよと命じました。
実行部隊として、比叡山の中心部を明智光秀、北部を木下藤吉郎(きのしたとうきちろう・後の豊臣秀吉)に担当させます。
光秀は、この暴挙に反対して信長を諫めたともいわれています。しかし、信長の部下である以上、命令に従わなければなりませんでした。
やむなく光秀は、比叡山の門前町として栄えていた坂本(滋賀県大津市)を焼き、無動寺谷(むどうじだに)から山頂へ駆け登ります。
司馬遼太郎(しばりょうたろう)は、『街道をゆく』に、次のように書いています。
当時、山上には「叡山三千坊(えいざんさんぜんぼう)」といわれるほど多くの寺がありましたが、一カ寺も残らず灰になったのでした。
信長を題材にした小説は数多くあります。その中に、千日回峰行に挑む僧侶を主人公にした異色の作品を見つけました。
隆慶一郎(りゅうけいいちろう)の『風の呪殺陣(じゅさつじん)』です。
主人公の昇運(しょううん)は、千日回峰行の達成を目指し、比叡山の峰から峰へ歩き続けていました。
ところが、ちょうど百日めの朝、行く手に不審な炎があがりました。おびただしい軍勢が山を登ろうとしています。信長の焼き討ちの始まりでした。
多くの僧侶が皆殺しに遭う中、昇運は命拾いしました。しかし、もはや千日回峰行を続けることはできません。
怒りの炎となった昇運がとった行動は、報復でした。織田信長を呪い殺すための修行を始めたのです。
この小説を雑誌に連載するにあたり、隆慶一郎は、千日回峰行と深い関係のある赤山禅院へ取材に訪れています。
赤山禅院の、当時の住職は、叡南覚照大阿闍梨(えなみかくしょうだいあじゃり)。戦後4人めに千日回峰行を達成した人でした。
隆慶一郎が、小説を書き終わってから、かの大阿闍梨に報告したところ、強烈な一喝をくらったのです。隆慶一郎は、次のように語っています(叡南覚照大阿闍梨は御前様と呼ばれていました)。
なぜ、千日回峰行を達成した大阿闍梨が、
「仏教が人を殺すかあ!」
と一喝したのか。
仏教に、「報復」はないからです。
善い行いをすれば、善い結果(幸せ)が現れる。
悪い行いをすれば、悪い結果(不幸)が現れる。
幸福も不幸も、自分に現れる運命のすべては、自分の行為が生み出したものだ教えるが仏教です。
誰かが、織田信長に報復しなくても、信長は自分が犯した罪の報いを必ず受けていくのです。
それなのに、小説の主人公は、
「自分は真面目に修行していたのに、信長が比叡山を焼き討ちしたから、千日回峰行を達成できなかったのだ。悪いのは、信長だ! あんなやつを生かしておいていいのか。仲間を虐殺された仕返しを、俺がしてやる」
と恨みをつのらせていきます。
人を恨み、報復する行為によって罪を造り、彼もまた、生きながら地獄の責め苦を受けて死んでいくのでした。
赤山禅院の大阿闍梨は、
「釈迦の教えを守っている者なら、報復など考えるはずがなかろう」
という意味で、一喝したに違いありません。
隆慶一郎は、もう一度、小説を書き直したいと言っていました。しかし、念願果たせず病で亡くなり、『風の呪殺陣』は未完の小説になってしまいました。
「わしは主を間違えたようじゃ……」
幻と消えた、明智光秀の一生と城
比叡山の東側のふもと、琵琶湖に面した町、坂本を訪ねてみました。
明智光秀は、比叡山を焼き討ちしたあと、信長からこの地を与えられ、坂本城(さかもとじょう)を築きます。当時、ポルトガルから日本に来ていたルイス・フロイスは、「明智の坂本城は、信長の安土城(あづちじょう)に次ぐ豪壮華麗な城だった」と伝えています。
比叡山で大虐殺を行った織田信長は、11年後に、自分の家臣に殺されます。燃え上がる本能寺(ほんのうじ)で亡くなりました。
信長を討ったのが、明智光秀でした。
光秀に、どんな怒りや恨みがあったのかは謎です。思いを遂げて喜んだのも束の間。11日後には、かつての同僚・秀吉に、山崎の合戦で敗れてしまいます。
謀反人と呼ばれ、哀れな姿で坂本城へ逃げる途中、農民の竹槍に突かれて亡くなったと伝えられています。
琵琶湖(びわこ)のほとりに、坂本城址公園(さかもとじょうしこうえん)があります。城は跡形もありませんが、かつての城主・光秀の像が立っていました。思ったよりふっくらした体格。鎧を着て遠くを見つめています。像のそばには「光秀の意地」と題する演歌の歌碑がありました(作詞 祝部禧丸)。
ボタンを押すと、
「わしは主を間違えたようじゃ……」
と、鳥羽一郎(とばいちろう)の歌声が流れる仕組みになっています。
琵琶湖の対岸(滋賀県近江八幡市)には、信長が築いた安土城がありました。権力を象徴する壮大な城だったといいます。ルイス・フロイスは、「われらヨーロッパの城よりも、はるかに美しく、気品があった」と書き残しています。
しかし、信長が討たれた直後、安土城は焼失します。築城から、わずか6年後のことでした。光秀の坂本城も、信長の安土城も、今や、幻の城となりました。
歴史には、先人の生きざまが刻まれています。私たちは、たった一度しかない人生を、何に懸ければいいのか……。歴史から学ぶことが多いと思います。