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歎異抄の旅(13)夏目漱石が「大革命」と驚いた800年前の大事件。それは女性差別の撤廃でもあった

「大革命」を断行した人──。
 明治の文豪・夏目漱石が、親鸞聖人(しんらんしょうにん)に贈った賛辞です。漱石が言う「大革命」とは、何だったのでしょうか。
 親鸞聖人は、9歳の時に天台宗の僧侶となり、比叡山(ひえいざん)で20年間も修行に打ち込まれました。
 しかし、29歳で転機が訪れます。比叡山を下りて、浄土仏教を説かれる法然上人(ほうねんしょうにん)のお弟子になられたのです。
 そのことを、漱石は「大革命」と言ったのでしょうか。
 違います。天台宗を捨てて、浄土仏教へ入った人は、他にもたくさんいたからです。
 では、漱石は何に感動したのか?
 再び京都へ向かって確認してみましょう。

夏目漱石が感嘆した、
    親鸞聖人の大革命

 法然上人は、京都の東山のふもとに寺を建立され、阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願(ほんがん)を説いておられました。その寺は「吉水草庵(よしみずそうあん)」と呼ばれ、現在の円山公園(まるやまこうえん)の辺りにありました。
 紅葉が鮮やかさを増す頃に円山公園へ向かいました。
 大きな池のほとりには、石造りのベンチが置かれています。ベンチに腰を下ろし、ゆったり風景を眺めるのは、とても気持ちのいい時間です。池の中には、大きな亀が泳いでいます。水辺に近づくと、鯉が集まってきました。
 池にかかる石橋を渡る観光客の中には、着物を着た男女をよく見かけます。

ひょうたん池の中央にかかる石橋

 公園の中を進むと、真っ白なウエディングドレスを着た女性に出会いました。長いドレスの裾を、後ろから数人が持って歩いています。カメラマンがついていますので、今から記念撮影をするのでしょう。

橋を渡って、公園の奥へ進む

 吉水草庵跡は、公園のもっと奥にあります。東山へ向かって坂道を上っていくと、広場に出ました。

公園の奥には石段があり、東山へ向かって道が続いている
吉水草庵跡・安養寺の門前の広場

 そこに、石垣で囲まれた寺があります。
 吉水草庵の跡地に建つ安養寺です。室町時代に、宗派が「時宗」に変わった寺ですが、門前には、
「法然親鸞両上人御旧跡吉水草庵」
と刻まれた石碑が建っていました。

法然上人の吉水草庵跡を示す石碑
山門の奥には、さらに石段が続いている

 今から約800年前、法然上人は、この地で、弥陀の本願を説いておられたのです。
 親鸞聖人は、
「死んだらどうなるのか分からない」
という真っ暗な心を解決したいと、雨の日も、風の日も休まれず、この吉水草庵へ通い、法然上人のご説法を真剣に聞かれたのでした。

 さて、夏目漱石が「大革命」と驚いた事件は、親鸞聖人31歳の時に起きました。公然と結婚されたのです。
「結婚? それがどうして事件なの?」
と疑問に思う人が多いでしょう。
 当時は、天台宗や真言宗などの伝統仏教は、僧侶が「肉食妻帯(にくじきさいたい)」することを固く禁じていたからです。
「肉食妻帯」とは、動物の肉を食べたり、結婚したりすることです。この戒めを破った者は、「破戒僧」として仏教界から追放されたのでした。
 一般の人も、「寺の僧侶が結婚するなんて、ありえない!」と思っていた時代です。それが常識だったのです。

 親鸞聖人が結婚されたのは、「女性への煩悩に打ちかつことができなかったからだ」と言う人がいます。禁断の恋物語として小説に書く作家もいます。
 しかし、親鸞聖人の肉食妻帯の断行は、そんな個人的な問題ではなかったのです。苦しんで生きている人々、そして未来の私たちのためだったのです。
 その重大な意味を感じ取ったのが夏目漱石でした。
 大正2年12月、漱石は、母校である第一高等学校(東京大学の前身)で行った講演で、次のように述べています。

 坊さんというものは肉食妻帯をしない主義であります。それを真宗の方では、ずっと昔から肉を食った、女房を持っている。これはまあ思想上の大革命でしょう。親鸞上人に初めから非常な思想があり、非常な力があり、非常な強い根柢のある思想を持たなければ、あれほどの大改革は出来ない。(中略)
 外の坊主と歩調を共にしたいけれども、如何せん独り身の僕は唯女房を持ちたい肉食をしたいという、そんな意味ではない。その時分に、今でもそうだけれども、思い切って妻帯し肉食をするということを公言するのみならず、断行して御覧なさい。どの位迫害を受けるか分らない。尤も迫害などを恐れるようではそんな事は出来ないでしょう。そんな小さい事を心配するようでは、こんな事は仕切れないでしょう。其所にその人の自信なり、確乎たる精神なりがある。その人を支配する権威があって初めてああいうことが出来るのである。

『漱石文明論集』(岩波書店刊)

すべての人が、
    平等に救われる教え

 夏目漱石は、親鸞聖人の肉食妻帯を、「思想上の大革命」「大改革」と位置づけています。
 その当時、僧侶が肉食妻帯をすれば、迫害を受けることは、火を見るよりも明らかでした。それでも、いかなる非難、弾圧をも恐れず突き進む力は、どこから生まれたのでしょうか。
 その謎を解く鍵は、安養寺(あんようじ)の本堂にありました。

石段を上り切った所が安養寺本堂

 現在は時宗の寺ですが、親鸞聖人の木像が安置されています。
 しかも、その木像は、
「親鸞聖人信決定御満足尊像」
と名づけられていました。
「信決定(しんけつじょう)」とは、「信心決定(しんじんけつじょう)」のことです。「信心獲得(しんじんぎゃくとく)」ともいいます。
 信心決定するとは、阿弥陀仏の救いに値(あ)ったことをいいます。
 弥陀の願力によって、この世は絶対の幸福に救われ、一息切れたら浄土へ往けることがハッキリするのです。
 しかもこれは全く弥陀のお力(他力)によってであることがハッキリ知らされますから、「明信仏智(みょうしんぶっち)」といい、他力の信心といいます。夏目漱石が、感嘆してやまない親鸞聖人の力強さの根元は、他力の信心にあったのです。
 親鸞聖人は、『歎異抄(たんにしょう)』に、
「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず」
とおっしゃっています。
「弥陀の救いには、老いも若きも善人も悪人も、一切差別はない」
という大宣言です。ここが、それまでの天台宗、真言宗などの伝統仏教と、まるっきり違うところです。
 天台宗の比叡山は、女人禁制(にょにんきんぜい)でした。つまり女性は救いの対象から外されていたのです。
 しかも、山へ入って難しい学問や厳しい修行のできる人でなければ仏教を求めることができませんでした。文字の読めない人、体の弱い人は除外されていたのです。
 ところが、弥陀の救いには、男女の差別はありません。能力の差別もありません。完全に平等なのです。
 結婚しているとかいないとか、肉を食べているとかいないとか、そんなことは弥陀の救いには関係ないのです。
 貧富や身分による格差も、全くないのです。

 ここに、誰でも、平等に救われる教えがあるのに、まだまだ世の中に伝わっていないことを嘆かれた親鸞聖人は、一大決心をされます。
 弥陀の本願を明らかにするために、自ら公然と仏教界のタブーを破壊し、釈迦の教えを明らかにしようとされたのでした。それが、法然上人の勧めもあって断行された肉食妻帯だったのです。
 親鸞聖人は『歎異抄』に、次のようにおっしゃっています。

(原文)
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。
 弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすと知るべし。

『歎異抄』第一章

(意訳)
〝すべての衆生を救う〟という、阿弥陀如来の不思議な誓願に助けられ、疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、摂め取って捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである。
 弥陀の救いには、老いも若きも善人も悪人も、一切差別はない。ただ「仏願に疑心あることなし」の信心を肝要と知らねばならぬ。
※意訳は、高森顕徹著『歎異抄をひらく』より

大波乱を呼ぶ肉食妻帯
  吉川英治の小説『親鸞』より

 公然と肉食妻帯を断行された親鸞聖人は、どんな迫害を受けられたのでしょうか。吉川英治の小説『親鸞』に描かれている場面を見てみましょう。
 親鸞聖人が、前関白(さきのかんぱく)・九条兼実(くじょうかねざね)の娘・玉日姫(たまひひめ)と結婚することが世に伝わると、都の中が騒然とし始めます。
(※綽空……しゃっくう。親鸞聖人の名前)

 七、八名の学僧がかたまって、立ち話になにか論議していた。
「いよいよ、世は末法だ、僧が、公然と、貴族の娘と、結婚するなどという沙汰が、なんの不思議に思われないほど、仏法も、人心も、堕落してきたのだ」一人が、書物を抱えながら、眼を剥(む)いていう。
 他の僧も、肩をそびやかしたり、法衣の袂(たもと)をたくしあげて、
「聞けば、法然はそれを、むしろすすめたというじゃないか」
「なんでも、大衆大衆と、庶民の低いほうへばかり媚びている俗教だからな。──しかし、法然はとにかく、綽空のような、いやしくも北嶺(ほくれい)の駿足といわれた者が、なんたる破廉恥か」
「僧の体面にかかわる」
「五山の僧衆は、黙認する気か」
「苦情をいっても、個人の意志でやる分には、どうもなるまい」
「仏誅(ぶっちゅう)を加えろ、仏誅を」
「どうするのだ」
「撲(なぐ)る!」

 非難する声が、あちこちからわき上がってきます。また、これをきっかけに、伝統仏教や大寺院の実態を嘆く者たちも現れました。(※範宴……はんねん。親鸞聖人の名前)

 床几(しょうぎ)に掛けていた二人の客があって、板を囲んで酒を酌んでいた。これもまた、貧乏そうな法師だったが、その一人がいい機嫌になって、気焔をあげていることには、
「べらぼうめ! 僧侶だって、人間じゃないか。吾々(われわれ)、人間たる僧侶を、木偶(でく)かなんぞのように、酒ものむな、女にも触るななどと、決めた奴がそもそもまちがっている。矛盾、秘密、卑屈、衒(てら)い、虚偽、あらゆる陰性の虫が僧院に湧く原因はそこにあるんだ。人間にできないことを人間がやっている顔つきしているんだから無理もないわさ! 俺は、前の少僧都範宴──今は吉水の綽空が、公々然と、妻を娶(も)つということを聞いて、こいつはいいと思った。俺は、綽空に双手(もろて)をあげて、賛礼する」
「しかり、おれも同感じゃ」と、一方の相手も、唾を飛ばして、
「東寺の鴉(からす)みたいに、ガアガア反対する奴もあるが、そいつら自身は、どうだ!」
「成ッちゃあおらん。五山の坊主に、一人だって、ほんとの童貞がいるかッてんだ!」
「綽空は、むしろ、正直者だ」
「ああいう人間が出てこなければ嘘だ。俺たちが、日蔭でぶつぶつぼやいていても始まらん、行動で示すことは、勇気が要るが、そいつを、堂々と、実践しようっていうんだから愉快だ」
「見ようによっては、彼は、仏教の革命児だ、英雄だ」

 日本の仏教を大改革するには、まず、激しい非難であれ、賛同の声であれ、こういう議論が巻き起こることが大切なのです。これによって、人々は、「釈迦の教えが、正しく伝えられているのか」と見つめ直す機会を突きつけられたのです。
 建仁3年10月。九条兼実の屋敷で、親鸞聖人と玉日姫の婚儀が挙げられました。それは、都の人々を驚かすくらいの盛大さであったのです。

公然と、盛大な結婚式が行われた(アニメ「世界の光・親鸞聖人」より)

 しかし、若い夫婦が住む家は、吉水からほど近い岡崎の松林の中の、質素な草庵でした。

 綽空は、妻へいった。
「今日から、日々、吉水へ参るのだ、そなたも、一緒に」
「はい」
「かねて、わしが、そなたに向って申し聞かしたことども、よく、胸にこたえておるか」
「わかっております」
「ここから吉水までは、道は近うもあれ、百難の障碍が必ずあるぞよ、不退の二字、胸に、わすれるな。いかなることがあろうとも、揺るぐな、躁(さわ)ぐな、怯えまいぞ、綽空が、一緒だと思え、良人(おっと)の力、御仏の御加護があると思え」

 親鸞聖人夫妻は、九条兼実から贈られた美しい車に乗り、岡崎から吉水へ向かわれます。しかし、町の中を行くに従い、2人が乗る牛車は、人の目を引き始めました。

親鸞聖人の牛車を取り囲む群衆(アニメ「世界の光・親鸞聖人」より)

 輦(くるま)が、鳥居大路(とりいおおじ)へかかると、もうその輦が、人を轢(ひ)き殺さない限りは、後へも前へも動かせないような群集だった。
「人前も無う、九条殿の法師聟と、その嫁御寮とが、一つの輦で通ってゆくぞ」
「気でも狂うたのか」
「果報すぎて──」
「いや、仏罰(ぶつばち)で」
「気ちがい聟(むこ)!」
「破戒僧っ」
「地獄車よ!」追っても追っても、輦の後から蛆のように群集は尾いてくるのである、そして、辻にかかるほど、その数は増した。
(中略)
 輦の先に立ってゆく、牛方と、侍とは、額を黒い汗にして、
「退(の)けっ」
「道を開け」
「往来の邪(さまた)げする者は軌(わだち)にかかっても知らぬぞよ」鞭(むち)を上げてみせたり、叱咤(しった)したり、一歩一歩、轅(ながえ)をすすませて行くのであったが、衆は、衆を恃(たの)んで、そんな威嚇に、避ければこそ、
「あれみろ!」と、指さして、町の天狗のように、わあわあと嘲笑(わら)う。
「あの、法師の顔は、どうじゃよ。真面目くさって、白金襴(しろきんらん)の法衣をまとうて清浄めかしているけれど──」
「夜は、どんな、顔することやら……」
「女性も、女性」
「よくよくな、面の皮よ! 二人ともに!」
 そんなところではない。野卑な凡下の投げることばのうちには、もっと露骨な、もっと深刻な、顔の紅くなるような淫らな諷刺(ふうし)をすら、平気で投げる者がある。
 そしてもう、十禅師(じゅうぜんじ)の辻へ出ようとするころには、輦は人間で埋められて、一尺も進み得なくなっていた。
(中略)
 ──誰か、熱鬧の人渦のうちから、その時綽空の輦を眼がけて、
「──堕落僧っ」と、石を投げた者がある。
 一人の弥次馬が、暴行に率先して、悪戯の範を垂れると、火がつくように浮かされている人間の渦が、いちどに、
「わあっ」と、喝采をあげて、
「外道めっ──」とまた、石を抛(ほう)り投げた。
 ばらばらっと、牛の草鞋(わらじ)だの、棒切れなどが、軌や、簾(れん)へ向って、暴風みたいに飛んできた。

 肉食妻帯の断行が、いかに、大きな波乱を巻き起こしたか……。吉川英治の小説は、その一端を表しています。
 親鸞聖人は、「仏教を破壊する悪魔」「仏敵」「色坊主」「堕落坊主」「破戒僧」……などと、あらゆる非難の的になられました。
 誰でも、人から非難され、ののしられるのは、つらいものです。苦しいものです。それなのに、火の中に飛び込むようなことを、あえてなされた親鸞聖人。
 そのお気持ちを、主著『教行信証(教行信証)』に、次のように述べておられます。

(原文)
 ただ、仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥じず

(意訳)
 どうして、こんな幸せに救い摂られたのか。よろこばずにおれない。感謝せずにいられない。ますます如来の深き慈愛を知らされて、どんなに、けなされ罵られようとも、前進せずにおられない。

親鸞聖人のお住まい
    岡崎草庵跡を訪ねて

 吉水草庵跡から、親鸞聖人の岡崎草庵跡(おかざきそうあんあと)へ向かって歩いてみましょう。
 円山公園を出て、知恩院(ちおんいん)の前の神宮道を北へ進みます。
 400メートルほど歩くと、空を覆うように枝を茂らせたクスノキの大樹が見えてきます。青蓮院(しょうれんいん)です。

青蓮院の前の大クスノキ

 親鸞聖人が9歳の時に、出家得度(しゅっけとくど)を受けられた寺です。
 実は、この時すでに法然上人は吉水の草庵で、弥陀の本願を説いておられたのでした。
 それなのに親鸞聖人は、歩いて5分もかからない場所にいながら、法然上人にお会いすることができなかったのです。「きっかけ」や「縁」がなければ出会いは生まれません。親鸞聖人は、このすれ違いから20年も後に、ようやく法然上人から弥陀の本願を聞かせていただくことができたのです。
 青蓮院から神宮道を、さらに北へ進みます。

 琵琶湖疏水に沿って東へ折れ、美術館や動物園が建ち並ぶ岡崎通へ入ります。

琵琶湖から京都市へ水を引くために建設された琵琶湖疏水(水路)

 道路の両側の松の木が印象的でした。親鸞聖人のお住まいは、松林の中にあったといわれていますので、その名残かもしれません。

京都市動物園前の岡崎通

 岡崎草庵跡は、丸太町通に面しており、現在は、真宗大谷派の岡崎別院になっていました。門前には、「親鸞聖人御草庵遺跡」と刻まれた大きな石碑が建っています。

親鸞聖人御草庵跡(真宗大谷派の岡崎別院)

 境内に入ると、黄色と赤の紅葉が鮮やかに輝いていました。
 本堂の西側に、石の柵で囲まれた小さな池があります。

岡崎草庵跡の鏡池

 そばの立て札には、次のように記されていました。

鏡池(姿見の池)
 宗祖親鸞聖人が承元法難の折り
 この池に自らの姿を映され
 越後に旅立たれたといわれる

「越後に旅立たれた」とは、どういうことなのか……。
 実は、弥陀の本願を明らかにするために肉食妻帯を断行された親鸞聖人に対して、比叡山延暦寺(えんりゃくじ)や奈良の興福寺(こうふくじ)から、激しい非難が巻き起こったのです。ついには、時の権力者から流刑を言い渡されたのでした。
 35歳の親鸞聖人は、流罪人の汚名を着せられ、妻や子供と別れて、遠く越後(現在の新潟県)へ旅立たれたのです。
 次回は、親鸞聖人を流刑に追い込んだ大弾圧、「承元(じょうげん)の法難(ほうなん)」の跡地を訪ねてみましょう。

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